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記録するやつ、されるやつ。

朝が弱いもので極力は午前中に予定を入れないようにしている。基本始業時間を14時としてるので、その分ズレこんで寝るのが3~4時という生活をもう何年も続けている。もはや譲りにくい暮らしのリズムと化した。

ありがたいことに、そういうリズムでもどうにかなるような働き方を、仕事をさせてもらえている。もちろん、自然と(受動的に)その環境ができていたわけではなく、そのリズムを許せる/許してもらえる環境をつくらねば(死ぬ)という意識があったから、数年かけてアプローチしてきた結果であると自負している。

東京から離れるとき、そういった暮らしの”リズム”と、物事が進んでいく”スピード”に対してえらく敏感だった気がする。単純に「早い」とか「遅い」の比較ではなく、どっちが良い悪いという優劣もない。自分の体内に打ち込まれるビートが、どんな”音”とバチコンはまるのか、またそもそもその音の調整ができる隙間をつくれるかどうかが重要だ。今いる場所は、それらを自分に合わせて調整・実験しやすいよなーと気に入っている。

ローカルの記録に関するプロブレム

ライター的なことをやっていたときのことをふと思い出した。

あのときは、基本スタンスは、”記録係”だった。「移住」「小商い」「まちづくり」などをテーマを、何かを興している・活動している・実践している人がいて初めて記録係はその役割を全うできる。何もないところに記録は生まれない。

0→1ではなく、1→100の部分に関わらさせてもらっていたのかもしれない。

ライター的なことをやらなくなって、いつの間にか、興し活動し実践する側、つまり”記録される”あるいは”観測される”側になっていた。性格の問題もあるが、たとえ”記録係”としての視点・発想はあっても、自分から記録したいという気持ちは湧かない。だから記録係が現れるのを待つ、引き寄せるために少しだけ頭を使う。

そう、本来であれば、記録する人と記録される人がいてやっとローカルの動きが見える化されるわけだ。地域によってその比率はだいぶ違って、「記録されるような活動はしてるけど、記録する人が少ない」「記録する人ばかりがいて、活動が少ない」などまちまちである。何が黄金比なのかは未だにわからない。

が、少なくとも、今いる大山町あるいは鳥取西部に関しては、「正しく記録できる人はほとんどいない」という雑感がある。”正しく”というのはこれもまたざっくり言えば、”編集”視点を持って記録できる人という意味である。

ローカルにおけるメディア問題を挙げるとき、「①記録する人と記録される人のバランス」「②人材不足でどちらも一人でやらなくちゃいけない構造」「③記録する技術に対する意識」があるように思う。

ここらへんについてもモヤついてることわりとあるんだなーと気づいたので、また適当なタイミングで書き留めておこうかしら。

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