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【古備前】1585年に豊臣秀吉に滅ぼされた安土・桃山時代の土層から出土した「備前焼徳利」から、桃山茶陶の真実を垣間見る【桃山時代】古陶磁鑑定コラム

こんにちは、古陶磁鑑定美術館です。

古陶磁鑑定美術館-叢書 「古備前焼の年代鑑定」

織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土・桃山時代(1572-1600)は、戦国の乱世にありながら、わび茶が大流行した時代です。

当時の茶の湯(茶会)で使われた道具は、一国の価値にも相当する程高価なものでした。武将や大名によっては、戦の褒美に、領土よりも茶道具を所望した逸話が残されているほどです。

そんな当時の茶道具の筆頭格と言えば、茶碗等の「陶磁器」です。

現在でも、安土・桃山時代の茶の湯で使われた陶磁器は「桃山茶陶」と呼ばれ、何千万円から何億円単位の価格で取引される器が存在します。

しかし、それだけ高価な器で、しかも、作られた当時から何百年も経過してしまっていますから、中には贋作や時代の異なる器が紛れてしまっているのも現状です。

さらに、各地から出土する埋没品の発掘調査や、考古学の研究が進展したことに伴い、主に江戸時代初期の焼き物を「桃山茶陶」として間違えてしまっていた事実が判明し、歴史が大幅に修正される事態に陥っています。

つまり、本来は桃山時代の焼き物ではない器を、「桃山茶陶」として崇めてしまっている誤認ケースが続出しているのです。

裏を返せば、それだけ「織田信長や豊臣秀吉や千利休が実在した安土・桃山時代の本物の桃山茶陶は貴重な存在」なのです。

そこで今回のコラムでは、インターネット環境があれば、誰でも「桃山茶陶」を正しく見分けられるテクニックやその実例を紹介します。

安土・桃山時代に戻って事実を確認する訳にはいきませんが、令和時代の現代社会には、情報通信技術や解析技術があります。

それらの技術を駆使して、戦国時代の真実に迫ってみましょう。


1585年に豊臣秀吉に滅ぼされた遺跡から出土した備前焼徳利

さて、今回見ていく歴史の証拠は、現在の和歌山県にある「根来寺」の遺跡から出土した「備前焼の徳利」です。

安土・桃山時代の古備前焼の徳利の焼け肌とは?

引用:和歌山県立博物館さんのホームページにて紹介されています】

リンククリックで、ホームページに移動

根来寺は、織田信長と豊臣秀吉によって、二度に渡って征伐を受けていますが、1585年の豊臣秀吉の大規模な紀州征伐によって、兵火に焼かれて制圧された歴史があります。

その焼土の土層から出土したのが、引用の「備前焼の徳利」なのです。

つまり、この徳利は、1585年の当時、リアルタイムで使われていた、正真正銘の安土・桃山時代の備前焼ということになります。

なぜこれが貴重かと言えば、1585年の備前焼と言えば、当時の茶会記でも多数の記録が残っている通り、「建水」や「水指」といった品目で、圧倒的なシェアを誇っていた桃山茶陶の代表格だからです。

安土・桃山時代の茶会記に残る備前焼茶道具のデータ(参考)

その当時の、まさに流行のピークの備前焼桃山茶陶の焼け肌や土味こそ、この力強い徳利のような景色だったと言えるでしょう。

現在でも、安土・桃山時代と称される「古備前徳利」は比較的多く存在しますが、それらの伝世品と、この出土品の焼け肌や土質を比較すると、正直、ほとんどの品が、桃山時代の様式と合わないように感じられます。

その理由は、やはり「時代が異なる」からなのです。

それらを踏まえて、当館が保管する古備前焼の伝世品を見比べてみると、一般的には「室町時代(末期)」と鑑定されている様式の種壺や古壺が、この時代の焼け肌に近いと判定できます。

安土・桃山時代の古備前焼の焼け肌(古陶磁鑑定美術館 所有)

本物は、野武士のように荒々しく、ズシリと重く、いかにも戦国武将の焼き物といったオーラが放たれています。歪みや箆目などの装飾もありません。

つまり、本当の安土・桃山時代の徳利や茶道具の姿は、かなり誤解や歪められた形で、現代に言い伝えられているのです。

織田信長、豊臣秀吉時代(桃山時代)の古備前焼の土味(古陶磁鑑定美術館 所有)

その真実を知るには、当時の出土品や発掘資料を実際に見て、本物の姿形を目に焼き付けなければならないのです。

贋作や時代の異なる品を間違えて高額で購入しないためにも、各地の出土品や発掘資料を参考に、見識を深めて参りましょう!

古備前焼の年代鑑定は、古陶磁鑑定美術館にお任せください

古陶磁鑑定美術館では、古備前焼の年代鑑定や真贋判定の参考になる書籍や画像データを公開しています。ぜひご覧ください。


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