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芸術を通して、みんなが安心できる空間をつくる。【おもせ〜ひと vol.10】

福島県大熊町の”おもせ〜ひと”(=面白い人)を数珠つなぎ形式でご紹介するインタビュー企画「おおくままちの”おもせ〜ひと”」。

10人目にご紹介する”おもせ〜ひと”は、福島県大熊町ご出身、おおくままちづくり公社で働かれている、佐藤真喜子さんです!

佐藤真喜子(さとう まきこ)さん
福島県大熊町ご出身の24歳。おおくままちづくり公社の職員で、復興支援員や、おおくまコミュニティづくり実行委員会の事務局のお仕事もされています。幼少期から、"表現すること"に興味があり、高校時代は演劇部に所属したり、県主催のワークショップに参加したり、大学時代も演劇を学ばれていたそうです。ご自身が「演劇」「芸術」を通じて得られたものを、町に還元したいという思いを持っていらっしゃいます。

今年の9月に開催された、なつ祭りinおおくま2022内で行われたアートフェス、くまフェスの企画立案者でもある真喜子さん。

「人生の中で演劇をやっていく」と決意していた矢先、コロナウイルスの影響を受けて、その道を一時停止せざるを得なくなり、地元である福島県に戻ってきたといいます。

「演劇以外に頑張れそうなこと」として、ふるさとのために働くことを決意した想いや、震災後の避難の経験からずっと抱いている「マイノリティ」という意識を変化させてくれた演劇のこと、そこでの人との出会い、舞台芸術という特殊な空間がもたらす安心感について…などなど、現在のお仕事の話から、真喜子さんにとっての演劇の存在、舞台芸術の特異性を被災地域に活かすという展望まで、たっぷりお伺いしました!


-簡単に自己紹介をお願いします。

真喜子:福島県大熊町出身、24歳(取材当時)の佐藤真喜子と申します。
大熊町の復興支援員を拝命しております。あと、おおくままちづくり公社の職員です。

-普段はどんなお仕事をされているのですか?

真喜子:復興支援員としては、コミュニティ支援と呼ばれる仕事をしています。
あとは、「おおくまコミュニティづくり実行委員会」っていう、年に4回くらい町内でイベントをやって、関係人口とか交流人口とかを増やしていこう、楽しいことを大熊町でやっていこうっていう委員会の事務局を担当しています。

まちづくり公社の職員としては、広報を担当していて、最近は「帰忘郷」というお酒のPRをがんばっています。

帰忘郷について、詳しくはこちら!

復興支援員のしごと

「演劇以外に、何を頑張れそうだろうって考えた時に、ふるさとのことだなって」

-復興支援員はいつからやられているのですか?

真喜子:まちづくり公社でアルバイトを始めたのが2020年の7月末くらい、大学4年の時。正式に復興支援員になったのは2021年の2月ですね。

-まちづくり公社でのアルバイトを始めた経緯を教えていただけないでしょうか?

真喜子:大学では演劇を学んでいて、「人生の中で演劇をやっていく」って目標を立てていたんですけど、コロナでそれがうまくいかないなと感じてしまって。いわゆるプロと呼ばれている人ですら、厳しい状況に立たされている中で、自分自身の生活力とか、演劇の素養とかを加味しても、なかなか関東でコロナ禍を乗り切りながら演劇活動を続けていくのが難しいんじゃないかと。

それで、大学もオンライン授業になったし、一旦福島に戻ってきたんですよ。でも、卒業も間近に控えていて、ずっと実家にお世話になっているわけにもいかないなと思っていて。
どうしようかなって時に、たまたま前任の復興支援員の人とご縁があって、どういう仕事をしているのかとか、そもそも復興支援員とかまちづくり公社って何なのかとか、話を聞きに行って、その場でアルバイトが決まったって感じだったんですよ。

だから、最初は町で働くことを目標に帰ってきたとかじゃなかったんです。単純に演劇をやるのが難しいから、予備で仕事を探そうみたいな感じで。だから、コンビニとか飲食店のアルバイトでもよかったんですけど。

でも、自分の性格的にというか、震災後の経験を通じて、自分はやっぱり興味のあることしか頑張れないなと。演劇以外に、何を頑張れそうだろうって考えた時に、ふるさとのことだなって。
それで、大熊町に帰ってきて、大熊町で働くっていう選択肢が、自ずと生まれたって感じですね。

-復興支援員をやる中で、印象に残っていることはありますか?

真喜子:みんなすごく元気なんですよ。
イベントにくると、開口一番、お互いに「久しぶり!」っていうんです。で、最近どうだった?とか、どう過ごしてた?とか、元気だった?って話から、だんだん大熊の思い出話に花が咲いたりして、イベントが終わる頃には「またね!」っていって帰っていくんですけど。

その開口一番の「久しぶり」って、いつだかの「またね」が果たされたからこそ、出てきた言葉なんだなっていうのを目の当たりにしたときに、この「またね」をなるべく叶えてあげるのが私の役割だなって思ったことが最近ありました。

自分も被災当時は13歳、中学1年生でしたけど、そういう子供でも、避難しなくちゃ行けなくなったって時に「大熊に帰りたいな」とか、「大熊の人に会いたいな」っていう想いはずっと抱き続けていたので、それが全ての原動力というか。
多分その思いって、世代関係なく持ってるものだろうし、そういう思いがあるからこそ、上の世代の人が持つ「大熊との関わりを絶やしたくない」とか、「大熊の人に会いたい」とか、「大熊にいくきっかけが欲しい」っていう気持ちはものすごくわかってるつもりなので。
復興支援員を拝命している自分だからこそできるやり方っていうのがあるんじゃないかなと思って日々活動しています。なかなか答えは見つからないですけどね。

支援員の役目は、あくまで自走をサポートすること

-ところで、そもそも復興支援員とは、どのようなお仕事なのでしょうか?

真喜子:地域活動を通して、町民の方、1人1人がふるさとや町民同士の繋がりを作れるように動き回ることが、支援員の仕事です。
ご存知の通り、大熊町はまだ避難を続けている方がたくさんいて、そういう方々が避難先でも町民同士の繋がりを継続できるように、各避難先でコミュニティ団体というものを立ち上げられているんです。
そのコミュニティ団体の運営支援だったり、活動状況の把握を主にやっています。

-例えば、町民の方のお家に伺ってお話しすることもあるんでしょうか?

真喜子:そこまではやっていないんです。
そういうことを求めている人って、高齢の方が多いと思うんですけど、その方々に対して全てをサポートしてしまうと、どんどんその方がサポートなしでは生きられなくなってしまう問題もあったりして。なるべくその方がその方らしく、自分でできることは自分でやってもらうっていうスタンスなんです。
なので、個人個人をサポートするっていうわけではなくて、あくまでその人たちがつくる団体をサポートしています。

-なるほど。個人を直接支援しているわけではないのですね。”支援員”という名前に囚われていました。

真喜子:やっぱり町民の人って、避難生活を送る中で、どうしても大熊の人に会いたいっていう思いが強くて、強いからこそコミュニティ団体が出来上がっていったんだと思うんですけど、その団体をいかに長く継続させるかのサポートをしてますね。

基本的には、コミュニティ団体には自走してもらって、我々の仕事は様子を伺いにいくこと。だからがっつり運営に携わっているとかでもなく、各コミュニティ団体が、どういう動きをして、どういう活動をしているのかって、情報収集をして、例えば「この団体は15日にイベントやろうとしているよ」みたいな、集めた情報を各コミュニティ団体に提供するって感じです。

-団体同士の橋渡しを行うのがお仕事なんですね。

真喜子:そうそう。それぞれの町によって違うとは思うんですけど、大熊町に限って言えば、基本的にはやれることは自分たちでやってもらうっていう姿勢は崩さずにやってますね。

真喜子さんと演劇

心から安心できる場所が、演劇部だった

かまどキッチン/海2

-大学時代は演劇を学ばれていたそうですが、真喜子さんが演劇に興味をもつようになったのはいつ頃だったのでしょうか?

真喜子:元を辿れば、幼稚園とか小学校の時、絵本とか教科書の「」(カギ括弧)の部分が好きだったんですよ。表現することや、自分じゃない誰かになるっていうことに対しての興味はちっちゃい頃からずっと持っていて。
明確に役者になりたいと思ったのは小学校の時です。小学校の時の卒業文集には「声優になりたい」って書いていました。

でも、その直後に震災があって。その時に、「私、将来役者になりたい」って言うことが憚られるような空気感を、子供ながらに感じたんです。ただでさえ夢見がちな職業だと思われているので、震災当時の混乱の中でそれを言ったら反感を買うなっておもって、中学時代は「将来は中学の先生になります」とか言ってました。

-その後、演劇とはどのように関わっていらっしゃったのでしょうか?

真喜子:中学校卒業後は、南相馬に避難して、近くの高校に進学しました。ただ、中学時代は学校生活を送ることが当たり前にできていたのに、高校に上がった瞬間に、学校に行けなくなってしまって。

南相馬って、津波の被害の方が大きかったんですよ、もちろん原発で避難した人もいるんですけど。どちらかというと、津波の被害を受けた人の方が周りに多い環境になった時に、自分が大熊町出身で、原発の影響で会津に避難して、いまは南相馬にいますっていうことを、言い出しづらいなって思ってしまったんです。
もしかしたら原発で避難したことをあまりよく思わない人がいるかもしれないとか、その人はなんとも思っていなくても、その人の親がそう思っているかもしれないとか、言ったら後ろ指差されるっていう思い込みがあって。それでどんどん不登校になってしまいました。

でもその時に、たまたま入部していた演劇部には通えていたんですよ。
自分が大熊町出身で、色々あって今南相馬に住んでますってことを、なぜか演劇部の人たちには言えたんですよね。すごく居心地がよくて、言ったとしても、誰もそれをネガティブな風に捉えないって言うのがわかっていたんです。大熊に帰ったわけではないけれど、心から安心できるような場所を一つ見つけた、みたいな。

だから演劇部にはずっと通っていて、授業には出ないけど夕方になったら電車に乗って部活に行くっていうのを続けていたんですよね。

「自分はずっとマイノリティだと思っていた」-県主催のプロジェクトで受けた衝撃

真喜子:でも、授業に行かないのに進級できるわけないじゃないですか。他の高校に転入するっていう選択肢もあったんですけど、私は演劇部を続けたかったので留年して、2回1年生やりました。そのくらい、演劇部に救われていたんですよね。

ただ、2回目の1年生の夏休みを迎えるくらいに、ぱたっと急にだめになっちゃって、高校に通うことのハードルが、自分にとっては高すぎるんだなって思って、結局通信制の高校に転入しました。

通信制の高校に行く上で、唯一嫌だったのが、演劇ができないことだったんですけど、演劇続けられなくて悲しいなって思っていた時、母があるプロジェクトを見つけてくれたんです。
それが、福島県内の中高生でミュージカルをつくろうというプロジェクトで。幸運にも、通信制の学校に行っても、演劇を続けられる環境ができたんですよ。

そのプロジェクトでの経験が、私にはすごく衝撃的だったんです。
それまでは、福島県出身ですとか、大熊町出身ですっていうと、周りの大人が色眼鏡で見てくることが多くて。開口一番は大体「大変だったね」とか、「おうち大丈夫なの」とかで、テレビに出させられて、感動ものとして消費されたこともあったり、”被災地の頑張っている中学生たち”みたいな感じで見られることが多かったんですけど。
そういう過程をたどっていた中で、その演劇のプロジェクトに関わっている大人たちは、「自分たちは、福島県の学生たちとつくりにきているから、福島県のどこの町村出身かとか細かいことは関係ない」みたいな感じで、ある意味一人一人に対して対等なんですよね。

それまで、自分はどちらかといえばマイノリティだと思っていたんです。
「原発で避難している人は東電から賠償金もらってそれで遊んで暮らしているんだ」とかって言葉を見聞きしたりとか、避難先の自治体に、スクリーニング検査っていって、全身に機械をあてて、被爆していないことが確認できないと、受け入れることはできないって言われたりとか。
同じ福島県の人にこんなことされる羽目になってしまったのはなんでなんだろうって。原発避難者という、批判や非難の対象になってしまった、マイノリティになってしまったっていうのが自分の中で結構ネックで。

でも、県主催のプロジェクトを通じて、違うんだ、みんなと同じラインに立つこともできるんだっていう気づきをそこで得ました。人と人とは対等であるべきなんだなってことにも、そこで気づきましたね。

みんなで共通項をもつことの大切さ

真喜子:県が主催するプロジェクトに参加したり、大学に行って4年間演劇を学んで、人が安心するためには、他人と共通項をもつっていうのがすごく大事なんだなって思ったんですよ。

例えば、演劇で言えば、隣に座って同じ作品を見ている人は赤の他人だけど、今日という日に、この会場に、同じ演目をみるためにきた人という共通項がある。
音楽ライブでも、この会場にいる何千人は、同じアーティストをみるために、同じ日にちの同じ時間に仙台の会場に集まっている、とか。

みんなもちろんその作品やアーティストを観るために来ているから、突然ステージに上がったりもしないし、舞台に立つ役者やアーティストが届けてくれる演技だったり音楽だったり、楽しい空間そのものをちゃんと受け取って、声援なり拍手なりで返して、それをまた役者やアーティストが受け取って、演技とか音で返してくれるみたいな、観客と演者との双方向のやりとりができるっていうのも、お互いがお互いを信頼しているからこそできることだと思うんです。
とくに演劇って、現実ではなくて「嘘」を舞台上で演じているので、上演している最中に、突然人が舞台に乗り込んじゃったりしたら、一瞬でそれが虚構だということがバレちゃうような世界。でもそんな中で、誰もそれを侵害しないし、それを侵害しないという前提で、演者も演じられる。だから演劇も、お互いの信頼関係があるからこそ生まれている世界なんですよね。

そうやって、みんなと同じ目的・時間・空間を共有することで、人は安心できるんだなって思って。

演劇部の居心地がよかったのも、当時はそんなに深く考えてなかったんですけど、そういうことなのかもしれませんね。
演劇部の人たちも、基本的には(自分たちの作品を観てもらうために)、その時間その空間に来てもらおうと演劇をつくるっていう、同じ目的をもつ人たちだったんですよね。
そうやって自分と共通項を持っているってだけで、私にとってはすごく安心できる場所に変わっていったんだと思います。

私が大熊に帰りたい、大熊の人に会いたいと思うのも、大熊の人たちは、”大熊町”っていう一つの共通点を持っていて、その上で原発事故っていう同じ体験をしているからこそお互いに安心できるからだと思うんです。だから、例えば「あなた東電の賠償金もらって暮らしてるんでしょ」とか、大熊の人は言わないじゃないですか。
大熊町も、私にとってすごく安心できる場所なんです。

真喜子さん立案のアートフェス「くまフェス」で行われた演劇の上演
「くまフェス」には音楽ステージも。
真喜子さんの同級生のバンド「ロッカ」も「くまフェス」に出演されました

舞台芸術の特異性を、被災地域に生かしていく

真喜子:舞台芸術って今の時代に逆行するものだと思うんですよね。

今って、スマホさえあればお家を映画館にすることもできるし、スーパーにすることもできるし、動物園みたいにすることもできるじゃないですか。
それに対して、演劇や音楽ライブって、決まった時間に、決められた場所に行かないとみることができないものですよね。わざわざその時間に間に合うように計算して、家から出ないといけない。

でも、その場に集まっている人たちは、目的・時間・空間という、3つの共通点をもつことができるんです。

この、舞台芸術の今の時代に逆行した特異性って、大熊町とかいわゆる原発被災地と呼ばれる地域にはすごくマッチすると思ったんです。
みんながまだいろんな不安を抱えている中で、一瞬でも心から安心できたり、楽しいなって思ってもらえるような時間を作るためには、みんなで同じ目的・時間・空間を共有する、共通点をもつことができる、舞台芸術の性質がすごく有効だなって。

それだけじゃなくて、舞台芸術を通じてみんなで一緒の体験をすることで、隣の人が赤の他人じゃなくなるような感覚になってくれたらいいなって思いもあるんです。大熊町って、何かにつけて、町民だとか、町民じゃないとか、移住者だとか帰還者だとか、そういう分け方をしちゃうと思うんです。でも、そうではなくて、どういうバックグラウンドを持っていようと、人と人とは対等であるべき。隣の人が、元町民だろうと、帰還者だろうと、移住者だろうと、単純に遊びに来た人だろうと、みんな対等であるべき。

それを、芸術を通じて実現できるんじゃないかなって。
自分が演劇で得た安心感を、町に取り込んで何かを生み出したい、町に還元したいっていう思いは、大学時代からずっと持っていたんですよ。
みんなで共通項をもつということを、この町や、原発被災地って言われるところに、生かしていきたいですね。

大熊の"友だち"を増やしたい!-これからの大熊町

-これから、大熊町でどんなことをやっていきたいですか?

真喜子:遊びにくるハードルを下げまくるっていうのが、私のやりたいことです。

今、大熊町に関わるとなんかしなきゃいけないのかなって空気感が漂っているのかなって思っていて。でも、何かにつけて復興がどうとか、嫌じゃないですか、そういうの。別に大熊に来たからといって、何か一つの成果をあげなきゃいけない決まりもないし。
自分ももちろん町の盛り上がりのために何か還元できたらいいなって思っている人間ではあるけれど、今すごく人を避けている構図になっちゃってるなと。

同年代が少ない理由ってそこだなって思っていて。娯楽がないんですよ。大熊に行ったってなんにもない、だったら都会に行った方が楽しいしって。だから帰ってくる人が少ないんだと思うんですよね。

復興のために、町に帰って生活しなさいみたいな空気感があると思うんですけど、そうじゃなくて、「たまーに帰ってきてくれない?」とか「たまーに思い出してもらえない?」くらいの空気感じゃないと、誰も来ない気がしていて。そのゆるーい空気を作っていけたらいいなと思っています。

もちろん復興していかないといけないっていうのはわかるけれど、そのためにこれまでにないスピード感で、新しい建物が建ったり、駅前が更地になったりっていうのを目の当たりにした時に、自分の町のことなのに「ついていけないな」って思う瞬間があって。
震災前の大熊町を知っているからこそ、田舎だからもうちょっとスローペースだったはずなのになあとか、いわゆる田舎暮らしを求めている人にこの町にきてもらおうって言って、こういう移住定住支援センターができているわけですけど、でもそういう人たちが求めている田舎暮らしとはかけ離れているスピード感だろうなって思うし。
それがすごくもったいないなと思っていて。せっかく興味を持ってもらえたんなら、その人が楽しく大熊に関わる余地を作らないと、離れて行っちゃうだけだなと思うので。もっとイベントを増やして、「なんか楽しそうだからちょっと行ってみよう」みたいなことができるといいなと思ってます。まずは遊びに来てもらうこと。

移住だの定住だのの前に、関係人口とか交流人口とか…そういうむずかしい言葉は好きじゃないから、私は「友だち」って言いたいんですけど(笑)、大熊の「友だち」を増やすみたいなことをやっていけたらいいなって思ってます。

-ありがとうございます。では、最後に今この記事を読んでいる方へ、伝えたいことがあればお願いします!

真喜子:これを読んででもいいし、違うきっかけでもいいから、福島県大熊町ってワードを目にしたら、頭の片隅に置いておいてもらえると嬉しいなって思います。
それをたまーに、思い出してもらうだけでも違うと思うので、それができたら、ぜひ私と、大熊と、友だちになりましょう!大熊町で待ってます!


編集後記

本編には書ききれなかったのですが、真喜子さんは、9月に大熊町で行われた「なつ祭りinおおくま2022」内で、大熊町にゆかりのあるアーティストや、真喜子さんのお知り合いを集めて開催されたアートフェス、「くまフェス」の立案者でもありました。
ご自身がずっと演劇に関わってきたことを生かし、「芸術ってもので、町のにぎわいとか、人と人との繋がりを取り戻したい」という思いをどうしたら実現できるかを考えた結果、「くまフェス」の開催に行き着いたそうです。

「くまフェス」当日は、食べ物を片手に聞こえてくる音楽に体を揺らす方、芝生をステージにして行われた演劇に目を奪われている方、どんな絵が完成するのかとライブペインティングの周りに興味津々な様子で近寄っていく方など…。子どもから大人まで、本当にさまざまな方が、空間を共にし、時間を共にし、同じ音楽や作品を共有して楽しんでいる様子が非常に印象的でした。

コロナの影響で、やむを得ず演劇の道を断念し、福島へ帰り、まちづくり公社で働き始めたという真喜子さん。
現在のお仕事は、大学に通っていた当時、思い描いていらっしゃった将来の形とは異なるものなのかもしれません。ですが、結果的にはご自身が学び続け、深い思いのある芸術を通じて「くまフェス」のようなイベントを成功させ、人々の繋がりを作りだすその一歩を踏み出されたことが本当に素敵だなと思います。

これから、大熊町へ「遊びにくるハードル」を低くしていくために、真喜子さんがどのようなことを仕掛けていくのか、とても楽しみです。またぜひ町に足を運びたいなと思った私でした。
というわけで、今後の大熊町のイベント情報は、要チェックです!!

インタビュー:殿村・中井
編集:殿村

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