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「呪い」状態から自由への冒険。


あと少し。
自由な心持ち。

幾つかの「呪い」がまとわりついて、既にそれは手に入れられる状態であるのに、自らで、手にすることが出来ていない状態。

呪いについて。
たとえば、思い込み。
世間とか、社会とか、システムとか、過去とか、恥とか、大人とか、職業とか、役割とかそういうものにたいする、「認識」のようなもの。
いつのまにか、「そういうもの」という思い込みのなかに、どっぷりと思考が支配されていて、羽を広げることが出来ないでいる状態。
それをひとまず、「呪い」と括ることにする。

その「呪い」を解く方法を一つ一つ探る冒険。
僕にとって日常とは、そういう冒険でもある。

まず、「記憶」のからくりは罠に似ている。
抱えている思い、視点、により、人々の記憶は同じものを見ているのにもかかわらず、全く違うものとして存在していたりする。

例えば、外側だけカメラなどで記録した状態であれば、改めて状況を検証し、呪いを解くことも可能なのかもしれないけれど、記録もまた視点でしかなく、完ぺきではない。

この完ぺきではないという物事を、ある種の「ギフト」として、楽しめるかどうかも、自由な心持ちへの要素になったりする。

何かである必要はない。
何者かになる必要もない。

ただ、「良きもの」に耳を澄ませて、心が弾む状態を感じる。
それを楽しむこと。

僕は、今まで、楽しめないでいたことに対して、どのような「呪い」がまとわりついていたのか、検証してみる。
検証する記憶もまた罠のようなものである。
そもそも、検証する必要もなく、とっとと捨ててしまえばいいのではないかと思ったりもする。

僕は「呪い」のまとわりついた状態で、全く理解できない人物と対面したときに思う距離に戸惑い、そして、呪いを解くカギを探る。

「ああ、そうか、そもそもこの人には卑屈が存在していないのか」
と。
この、全く理解できなかった人物の中に、前向きで主観的な要素を感じながらも、どうしても納得が出来ないズレについて考えたときに、僕の中にある「卑屈」が、前提として存在していないのではという驚き。

そこで一つカギを手にする。
その「卑屈」は忘れていい。
なぜなら、それはきっと「呪い」だから。

冒険は続き、少しずつ自由へと近づく。


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