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雑考・メモ・日記

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#こどもの哲学

哲学・日記・メモ「俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソス」

哲学・日記・メモ「俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソス」

メモの前のメモメモ

ディオニソスとアポロンの対立そのものを俯瞰できるのはアポロン。対立そのものを抱擁するのはディオニソス。もっと正確に言えば、俯瞰するアポロンと抱擁するディオニソスは理性を共有している。言い換えれば理性がアポロンを介して対立を俯瞰したり、理性がディオニソスを介して対立を包み込み抱いている。単なるアポロンと単なるディオニソスにはそれが出来ない。俯瞰も抱擁も成しえない。

2021年

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哲学・日記・メモ「問うという事について」

哲学・日記・メモ「問うという事について」

問うと言う事について
 
問いの前には驚きがあり、驚きの前には世界との出逢いがであり、出逢いの条件には、世界と私が別たれている事実がある。だから問いは、最初は世界の中に現れる諸事物への問いかけに関心を持つものの、次第に問いかけの志向の変遷を経るようになり、「世界と私が別たれている事実」へと向かい、そして最後にその理解は不可能なことである事を知る事になる。そしてこの、理解を超えた「別たれている事実」

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哲学・日記・メモ 「内容と形式」

哲学・日記・メモ 「内容と形式」

その体験がまだ逐一認識を必要としているとき、それは内容であろう。それが認識を必要としなくなったとき、形式となる。しかしこの形式は体験が過去のものとなり「沈殿」して、無意識の中で形式化(構造化と言っても良いかもしれない)されたものであるから、内容は必ず形式に先立つものでなければならない。または意識され認識される内容は、常に無意識に安住する形式に先行するものでなくてはならない。            

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雑考・日記・メモ  「自然・恐ろしいもの・じねん」

雑考・日記・メモ 「自然・恐ろしいもの・じねん」

自然もじねんも考えれば考えるほど私には恐ろしい。でも好きな方は多い。自然やじねんの概念をプラグマティックに使用するのなら私も勿論大賛成ですし、大好きです。でも本当にまじめに考えるとそれはとほうもなく恐ろしい。だからあくまで私はプラグマティックに好き、と言うくらいが私自身に誠実であります。本当に好き(≒善)なんて、きっと末期の眼でしか語れないと思うから。その方が誠実。少なくとも。私にとっては。
真剣

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哲学・日記・メモ「多様性っていうけど多様なものを本当に認識しているの?」

哲学・日記・メモ「多様性っていうけど多様なものを本当に認識しているの?」

多様性っていうけど多様性は多様なものを本当に認識しているの?

そもそも「多様性」の出自はとてもプラグマティックなものではなかったか。
多様であることによって、大きく急激な環境の変動に対応出来る、そういった絶滅回避の為の「多様性」ではなかったか。つまり生き残る為の多様性。それが「人権拡張の為の多様性」となり、「信仰と結んだ在り方の為の多様性」として、次第に適用が拡張されてきた節があります。しかしそ

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雑考・日記・メモ 「支配の罪(または功)があるならば誘惑の罪(または功)だって対等に扱いたい。」

雑考・日記・メモ 「支配の罪(または功)があるならば誘惑の罪(または功)だって対等に扱いたい。」

「支配」の罪に関しては多く語られるのに「誘惑」の罪について語られることが少ないのは何故か。単なる時代に因るものなのかそれとも・・・。

「支配・権力・男性性の罪」と「抱擁・誘惑・女性性の罪」を等価とする事は、反転して言えば、男性性と女性性の功を等価に肯定する事と矛盾しない筈なのだ。と思うのです。

だから私は対極主義!

哲学・日記・メモ「こどもの哲学とろうじんの哲学」

哲学・日記・メモ「こどもの哲学とろうじんの哲学」

こどもの哲学とろうじんの哲学

「こども」は世界と出逢い、世界に驚き世界に問いかけ、「世界への問いかけ」を介して世界とあそぶ。
「ろうじん」もまた同じくあそぶ。
しかし「ろうじん」はもう一歩先まで足を延ばして「世界への問いかけ」自体を問う事で、単なる「こども」の問いには収まらない。
だから「問う事」を哲学の本質とするならば、だから「こどもの哲学」は「ろうじんの哲学」に敵わない。
世界と出逢い、その

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