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コスプレと免許|『存在の耐えられない愛おしさ』(著者 伊藤亜和)を読んで


存在の耐えられない愛おしさ
著者 伊藤亜和
発行 株式会社KADOKAWA


同書との出会い


ランキングや評判がいいからという理由で本を読むことはほとんどない。

小説を読まないことも合わせて
おそらく、本に
お悩みの即時解決を期待している表れなのだと思う。

同書は、めずらしく評判を聞きつけ
noteで「パパと私」を読み、購入した。

購入した動機には、読書における初めての体験が作用していると思う。

大抵、文章を読む時は、脳内で音読されるのだが

作者の肉声を知っていれば、その声で
知らなければ、直近で聞いた声とリズムで再生される。

だが、著者の文章には、リズムと速度を完全にコントロールされ
自分のペースを失った。

車の助手席で
加速したかと思ったら、急ブレーキを踏まれたような

でこぼこ道を躊躇なく走られた後
どこまでも続く広い直線道路に出たような

不安定で痛快なドライブはあっという間に終わっていた。

免許と挫折


ドライブといえば、わたしは運転免許を持っていない。

正確にいうと、取りに行ったけど挫折した。

相当な大人になってから、免許合宿へと地方まで乗り込んだのに
仮免を取って、そそくさと逃げるように帰ってきたのだ。

しかも、転職するタイミング。

退職した会社からは盛大に送り出され
転職先には免許取得まで入社時期を待ってもらっていた。

帰ってきた後、知人から額面通りに失笑されたことは
言うまでもないだろう。

そして、この後、わたしは転職先にも入社することはなかった。

幽体離脱


直前に勤めていた会社では、制服を着用しなくてはならなかった。

ドラマでみるような、いかにもな制服だ。

初めてナースシューズというものを購入し、
慣れないストッキングを履いた入社初日。

わたしは、コスプレイヤーの気分で
昔からの知人に、笑い話としてこの状況を伝えることにワクワクしていた。

すっかり役者気分で、これまでの経験も性格も全てを封印し
それなりに馴染んで3年ほどがたった。

それまで、日付が変わるまで仕事をし、休日出勤が当たり前。
家に帰っても次の企画の資料作りで、クライアントへ朝方
メールをするような仕事をしていたもんだから
帰宅ラッシュも新鮮だったし、
なにせ仕事後にお店がやっていることに感動した。

初めての土日休みは、行きたいところへ行け、会いたい人へも会えたから
これぞ人間らしい暮らしなんだと、それなりに気に入っていたのだと思う。

ただ、そもそもコスプレだ。

ずっと自分ではない感覚、幽体離脱したままの日々

職場で我を忘れ没頭することも、
負けたくないと必死で喰らいつくこともない仕事

一体、わたしはどこに向かっているのだろう。

ついに、コスプレに飽きてしまったのだ。

意気揚々


幽体離脱していた魂が体に戻ると、行動は早かった。

神のお告げくらいのタイミングで、上司が退職するという話を聞き
すぐさま便乗し、転職活動を開始した。

これまで押さえていた感情は、負け戦(面接)を勝ち抜く原動力となり
希望の会社から内定をもらうことができた。

そして、今後のキャリアには必要だと免許取得を決意。

すぐさま合宿に申し込み、欲しい車も決めた。

意気揚々とはこのことを言うのだろう。

「自分らしい」という衣装を身にまとい、飛行機に乗ったのだ。

今振り返ると、前日寝落ちし、お風呂に入らないまま
飛行機に飛び乗った時から、歯車は狂い初めていたのかもしれない…

肩書き


さて、話を同書に戻そう。

免許の挫折を思い出したのは”バケモノ”という章を読んだ時だった。

初めて運転席に座る日まで、制服を脱ぎ捨て
本来の姿で生きていくための肩書きを手に入れたと浮かれていた。

免許があれば、誰の手も借りずにどこへも行ける。
やりたい仕事ができれば、魂が体から離れることはない。

でも、実際に待っていたのは
怖くて速度が出せず、教習所内の道が全く覚えられず、学科テストも合格できず、できないことばかりで教官に怒られている自分だった。

せっかく意気揚々と新たな人生をスタートしたはずなのに
何にも楽しくない。
家に帰れば、待っててくれる人もいるというのに。

S字クランクを曲がりながら、魂はあの日のまま
寝落ちした自宅のベッドにあることに気づいてしまった。

幽体離脱、再び。

そうか、わたしはコスプレ制服が脱ぎたいだけだったのか。

その仕事がどうしてもやりたい訳でもなく
絶対に車が運転したい訳でもない。

自分でした決断を他者から否定されないために手に入れようと決めたもの。

そりゃ、楽しくないし挫折する。

この世界の一員であると、誰もが認めてくれるような立派な肩書きが、私は欲しかった。

同書より

肩書きが、自分の決断を強固なものにしてくれると思っていた。

肩書きは、誰にも文句を言わせないための武器だと思っていた。

「ホンモノって言うのはね、作家っていう肩書が欲しいっていう気持ちよりも先に、書きたいって気持ちが文章から溢れてる人のことだよ」

同書より

どんなに失笑されようと、大金を無駄にしようとも
あの時、「帰りたい」と思った自分の声にきちんと向き合えたことは良かったし、今も後悔はしていない。

もちろん、免許を取得し転職していても、それなりに楽しくやっていたと思う。

ただ考えれば、肩書き欲しさに進路を決めることこそがコスプレだ。

自分で自分の声を無視せず、正しく聞いて
どうしたいかがわかっていなければ、着たい服さえわからない。

肩書きは、他者を納得させるものではなく、他者が決めるものなんだと
気づくための経費にしてはちょっと高すぎた。

教習車を見るたびに心がチクっとするけど、行動しなければわからなかったこと。話のネタとしては、そこそこ使えるだろう。

タダでは転ばないという強い気持ちで
魂が体から離れていかないよう、グッとつかんでおこうと思う。

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