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『茨木のり子詩集』。
傍らに携え、その日にふと出会う詩を愉しんでいます。


今日惹かれたのは、この詩でした。

ぎらりと光るダイヤのような日

短い生涯
とてもとても短い生涯
六十年か七十年の

お百姓はどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう

子供たちは地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる

それから品種の改良や
りふじんな権力との闘いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後仕末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生れたりすると
考えたりもっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品になってしまう

世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう

指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう

〈本当に生きた日〉は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ

茨木のり子「見えない配達夫」




教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう

わたしは毎年、同じ授業で同じ内容を話しています。
ですがその時間に話す内容は、多くても年に1回。
これまでたった20数回しか話せていません。
経験豊富だとかベテランだとか、間違っても口にできません。

一回一回どれだけ真摯に語ってきたのか―――
一日一日どれだけ懸命に取り組んできたのか―――
一年一年どれだけ誠実に生きてきたのか―――

そんなことを思うと、心がギュッと締め付けられます。


ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう

まったくもってその通り。
あまりの少なさに驚愕します。

なんてもったいない時間を過ごしてきたんだろう・・・
悔やむことばかりです。


でもそんな中で、忘れられないできごとがわずかばかりにあります。
それを<本当に生きた日>と言うのならば、その日のできごとはわたしだけの宝物です。
誰よりもわたし自身が、本当に生きた経験を大切にしてあげなければ―――そんな風に思います。


人生の正午を過ぎ、これからの人生をどう歩んでいくか。
その中で、あと何日<本当に生きた日>と出会えるのか。


日々を大切に生きていこう

そんな思いを、新たにしました。




明日も佳き日でありますように

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