「帰れる場所」と「向かう場所」で軽くなる

先月、会社を辞めた。

4年半ほど働いたが、ジェットコースターのような日々だった。

インターネット業界のサービスの栄枯盛衰は激しい。1年前に調子がよかった事業が、翌年には競合の登場で低迷…なんてことは日常茶飯事。とにかく1つ1つのサービスのライフサイクルが早い。

僕が携わっていたサービスも漏れなく、激しい戦いのど真ん中で、なんとか生き残ってきた。

毎日のように、トラブルが起きるし、あちこちからニュースが飛び込んでくる。物理的な忙しさもあったが、それ以上に頭の中が大忙しであった。

しかし、その分、時間の密度はとても濃かった。仕事にこういう表現が適切かわからないが、毎日が「文化祭の前日」みたい。ドタバタしながらも、目標に向かって全力疾走って感じ。

そういう環境だからか、チームの信頼関係は強固で、戦いを生き抜いた戦友みたいな一体感があった。

チームメンバーたちに退職の挨拶まわりをしているとき。

言われて、こころが軽くなった言葉がある。それが、

「いつでも戻ってきてね。」

「また一緒に仕事しよう。」

僕は内心、ホッとしていた。自分がこれまでやってきたことにも、意味はあったのだな…と。この数年間が肯定されたような気がしたのだ。

どんなに結果を出そうとも、自分で自分を肯定することには気がひけてしまう。

自己肯定感が低いわけではない(と思う)。けれど、何をやっても世の中には上には上がいることも知っている。その圧倒的な才能を前にすると、まだまだ胸を張れないな…と思ってしまうのだ。

だから、人からかけられる言葉がありがたい。

「いつでも戻ってきてね。」
「また一緒に仕事しよう。」

この2つの言葉は似ているようで、少し違っている。

「いつでも戻ってきてね。」は、文字通りいまの職場にいつでも戻ってきていいよ、ということで、「帰れる場所」としての意味を持つ。

新しい挑戦には、どうしても失敗への恐怖がつきまとう。失敗したら嫌だな…と足がすくんでしまうことすらある。

そんなときに、うん、大丈夫。自分には「帰れる場所」があるし。失敗しても元に戻るだけだ。と自分に言い聞かせる。

すると、ちょっとだけ足どりが軽くなる。歩を前に進めることができるようになる。『帰れる場所』が、防波堤になって、背中を押してくれているのだ。一種の開きなおりとも言える。

職場じゃなくてもいい。家族でも、趣味仲間でも、恋人でも。自分のなかに「帰れる場所」を持っておくこと。それが、思いきりよく生きる上で、助けになるんじゃないか。そんなことを感じさせてくれた。

一方で、「また一緒に仕事しよう。」はどこまでも前を向いている。

未来のどこかの地点で、また一緒に仕事をしようよ、ということなのだが、特に期限は決まっていない。それが3年後かもしれないし、10年後かもしれない。めぐり合わせによっては、その機会はやってこないかもしれない。

少なくとも確約された未来ではない。

しかし、いずれその機会がおとずれるかも…と想像すると、ちょっとした闘争心が湧いてくる。かつての仲間に恥じない自分でありたい…。そういう感情がメラメラと燃えはじめるのだ。

それに、互いにチャレンジを続けて、どこかで合流できれば、いまよりも面白いことができるかもしれない…なんてことも考える。厨二病っぽいかもだけど、麦わらの海賊団みたいな感じでいいじゃないか。

そのときのためにも、もっと実力をつけたいし、結果をださないと…と思う。そういう意味で、「また一緒に仕事しよう」は未来のある地点、いわば「向かう場所」を目指す言葉なのだと思う。

「帰れる場所」が守りで、「向かう場所」が攻め。そんなイメージかも。方向は違えども、どちらも挑戦への足どりを軽くしてくれる。

僕は改めて思う。挑戦することをやめないでおこう、と。かつての仲間と合流する日のために。新たに出会う人と面白いことをするために。

そして、逆に誰かの挑戦を送り出すときに言いたい。

「いつでも戻ってきてね。」「また、一緒に働こう。」と。


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