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肌で変化を感じることには意味がある

最近、日々の変化に鈍感になったな…と感じる。

2020年もいつの間にやら、10月である。コロナウイルスの影響で、今年の3月からリモートワーク中心の生活をしている。独身のひとり暮らしなので、人と会話する機会がめっきり減ってしまった。

週末は遊びに出かけることもあるけれど、平日は家で仕事をしている。ほぼ家にいる。家から出るのは、ご飯の食材を買いに行くくらいのもの。1日に声を発したのが、コンビニの会計時に「袋は入りません」「Suicaで」だけ…という日もザラにある。

こうやってnoteを書いているのも、人と喋りたりないから。話したい欲求のほこさきをインターネット上にもとめているところがある。人とのコミュニケーションの絶対量が減ってしまった。

そういう生活を半年ほど続けていたら、夏が終わっていて秋になっていた。あれ、もう2020年終わるじゃないか…。ハッと気づいて焦る。

季節だけのことではない。仲のよかった人が転職したり、結婚をしたり。本来ならものすごく残念に思ったり、嬉しく思うようなことなはずなのに、うっすらとした感情しか起きない。

どこか他人事で、周囲の変化にリアリティを感じない。いろんなことが変わっているのに、その変化にどうにも鈍感になっているのである。

なんでだろう。


外を散歩をしてみた。季節の変化を強く感じる。すこしだけ肌寒くなって、道行く人々の服装も移ろっている。蝉の声は聞こえなくなったけれど、代わりに鈴虫の声が聞こえる。

ふと、思った。いま足りていないのは、変化を肌で感じることかもしれない、と。

職場でとなりの席の人がやめてしまったら、物理的な意味でそこが空席になる。だから、ああ、あの人はやめてしまったのだ…と実感を伴って、寂しくなる。

しかし、オンラインMTGの画面越しだと、ディスプレイ上のアイコンが1つ減るだけである。物理的変化としては、とても味気ない。視覚的には変化を認識できるけれども、実感が伴わないのである。

人は、思っている以上に五感をフルに使って周りの情報を取り入れているのだと思う。特にオンライン環境だと、ついつい視覚や聴覚に頼りっきりなところがある。

けれども、ほんの些細な匂いや気温といったものあわさるからこそ、認識する情報に厚みが出てくるのではないだろうか。

たとえば、山に行ったら、空気がおいしいといった表現をすることがある。空気にも味があるのである。冬に自転車に乗ると、冬の乾いた辛い味がする。そんな空気の味と顔にあたる風の触感などが相まって、その場に居ることを実感できるのである。

環境変化を肌で感じる上では、五感のすべてが思っている以上に大事な役割を果たしているのだろう。

だから、家のなかにずっといると、取り入れられる外の情報の解像度が下がってくる。家の中の環境は良くも悪くも変化に乏しいから。これはシンプルに取り入れている情報量が減っていることを意味する。


ちょっと前に、職場の同僚と3人で飲みに行く機会があった。会社帰りに飲むのも半年ぶりくらいである。夜19時頃に店に入ってから、24時くらいまで。かなり長いこと飲んでいた。

仕事仲間と雑談をすることも減っていたので、お酒を飲みながら数時間にもわたって時間を共にすること自体がとても新鮮な気がした。

長い時間飲んでいれば、ポロポロと本音がでてくるものである。ひとりの同僚がもらし始めた。

「実はこれからこんな仕事がしたくって。」「でも、いまの環境だと実現できないかも。」など。腹を割った話だ。

実際会って話さなければ、永遠に聞くことができなかった気がした。

オンライン環境では、相手にまつわる情報が得にくくなる。どうしてもテキストコミュニケーションが主体になるし、ミーティングとて画面越しのバーチャルである。その場に存在する「人間」を感じずらい。

人間も動物である。情報量が足りない相手を警戒するのは当然のことである。ロジカルなアウトプットは出てきても、本当の心の声を聞くのは難しい。それはお互いの信頼関係があってこそ、成立するものだから。信頼がなければ、本音などとても喋れない。

今回は飲みの場で、相手の存在を肌で感じて、安心できると思ったからこそ、いろいろ話してくれたのだと思う。結果的に、その場から新たなコラボレーションが生まれそうである。


10月末に、いまの職場を離れることになった。今度は僕自身の環境に変化が起きる番である。

リモートでの退職になる。びっくりするのは、当の自分の変化にもちょっと鈍感になっていることである。いろんな人にオンライン上でこれまでお世話になった御礼の挨拶をするのだが、なんだか現実感がまるでなかった。


先日、身辺整理のために出社した。みんなリモートワークだから、誰もいない。ひっそりとしたオフィスである。

ふとした拍子に窓から外を見たら、街が広がっていた。

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4年前に、入社したての頃は眺めがよくてテンションがあがっていた風景。毎日通ううちに、慣れていって外を見ることもなくなっていた。

そうか。この景色を見るのも、あと数回なのか…。退社したら少なくともこの場所から、外を眺めることは人生でもう二度とないだろう。そう思うと、突然に胸がギュッと引き締まった。

ようやく変化を肌で感じはじめている。そんな気がした。


この半年でオンラインでの仕事環境が一気に整って、とても便利になった。これからもっと効率的になっていくことだろう。

しかしながら、リアルにオフィスに足をはこんでいるからこそ、感じるとることができる空気感といったものは、確かに存在する。臨場感とか、熱量とか、そういった目に見えない類のものである。すくなくともいまのテクノロジーレベルでは、これらのものをオンラインで再現することはできていない。

だからこそ、実際にその場に赴いて、場を、そして人の存在を肌で感じることを大切にしたい。フルリモートワークを半年以上続けてオンライン空間のど真ん中にいたからこそ、いっそうそう思うようになった。

これからどんなに便利になっていったとしても、この考えは変わることはないだろう。たぶん。

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おかしょう(TwitterInstagram)

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