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映画えんとつ町のプペルは何故、不気味なのか?

おはようございます。アルキメデス岡本です。

さて、本日は映画えんとつ町のプペルの不気味さについて解説したいと思います。

この映画は信者とアンチの間で批評が分かれて盛り上がっているようです。

私はこの現象を「異臭騒ぎ」と読んでいます。

私は元サロンメンバーですが、信者でもアンチでもない所からなるべく客観的にこの作品と西野商法について観察しています。

映画の内容は色々な見方があると思いますが、この映画から感じた不気味な違和感を言語化したいと思います。

■映画えんとつ町のプペルの不気味さ

この映画は観る人の置かれている立場や心理状態に大きく左右されるものでしょう。実際、オンラインサロンに支えられて作られた映画なので、サロンメンバーや熱狂的な西野信者には高評価です。逆に西野が嫌いなアンチには低評価のようです。

また、信者でもアンチでもない一般層はこの映画をどう感じているのか?

私の場合、映画の内容や作りに関する感想は既に書きましたが、一言で言えばつまらなかった。

西野の自己啓発ビジネス書を絵本のビジュアルで装飾してアニメ化したという感想です。

しかし、この映画をただ単につまらなかったと切り捨てる訳ではありません。
この映画の作品的評価とは別の視点から見ていくとまた別な楽しみ方を発見できます。

ただ、この映画を何回もリピートしている信者がいるというニュースを聞く度に不気味さを覚えているのが正直なところで、今回はこの不気味さを紐解きたいと思います。

■この映画はカルトなのか?

西野のオンラインサロンは宗教だとよく言われてましたが、実際に私が入会していた時もその臭いは既に漂っていました。このゴミ人間プペルの造形美もただ単に臭いキャラクターというよりも、その内面には怨念のような不気味さを感じてしまいました。(逆にスプラッター的なキャラにしたら面白いかも)

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面白い事もつまらない事もありましたが、基本的に西野を中心に回っている世界です。

西野の教義を信じている人が多く、その価値観の中にずっといるとその世界の中の出来事が常識になっていき外の世界が間違っているように感じてしまう感覚に襲われました。私には創価学会や幸福の科学のような教祖崇拝と同じ臭いがしました。

過去にカルト宗教の団体に勧誘されて、興味本位でその現場に潜り込んだ事がありますがそれと似た言動や行動が見られました。

オウム真理教とまでは言いませんが、西野が語るストーリーが何だか陰謀論のように聞こえてきて熱狂的な信者はマインドコントロールされてるようにも思えました。

実際、イベントで西野にも会ったことがありますし、サロンメンバーともお酒を飲んだ事もあります。みなさんいい人で純粋な方が多くいたのを覚えています。

ただ私には、映画えんとつ町のプペルでも感じた不気味な違和感を西野信者にも感じてしまったのは事実です。

実際この映画の話も、スコップの話を信じてルビっちが星を見る為にえんとつ町から脱出する訳ですが、その先どうなるか何も考えていない。
「自分達の信じたい事だけを信じ込んでいる。」
そんな不気味さを再び感じてしまったのです。

そして、やっぱりこの映画はカルトなのかという疑問が湧いてしまいました。同時に、スタン・リーキューブリック作のシャイニングのような狂気性を感じました。

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ちなみにこの映画は、モダン・ホラーの最高傑作として名高い。結果的にキューブリック版「シャイニング」は超常現象の因果関係が判然とせず、単に狂ったジャックの妄想話のようにも見えてしまう。本作は謎を残したまま終わり“難解映画”として今でも語られている。

話を元に戻そう。もちろん、この映画に希望を見出し励みにしている信者の人もいるでしょう。宗教自体は否定も肯定もしないのですが、しかしながら、この映画から感じた不気味な違和感の正体を追求せずにはいられないのです。

事実、熱狂的な西野信者がこの映画を何回もリピートしている訳ですが、この行動は実際の人気とは比例しない興行収入ランキングに影響を与えます。この現象は、ディズニーを倒すという西野の野望を達成させる為に、西野信者が頑張ってランキング操作をしているようなものでしょう。

かつてオウム真理教の教祖、麻原は「ハルマゲドン(人類最終戦争)が迫っている」と不安をあおって若者の心理につけ込み、信者を急速に増やしました。そして、その予言を現実化する為に、既成事実を作っていきました。

つまり、カルト宗教の教祖が予言した未来を現実化する為に、信者が既成事実を強引に作り上げていく行為と同じ危険性があります。

恐らく、熱狂的な西野信者の多くは20代の若者が多いでしょう。彼らはオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の後に生まれた1995年~2000年世代なので、オウム真理教やカルトへの警戒心は薄いと思います。

私はそれよりも上の世代でオウム事件を生々しく体験してるので、カルトや宗教に対する警戒心が若い世代よりも自然と高くなってしまうのは致し方ありません。

■宗教依存と確証性バイアス

という訳で今回は、宗教依存と確証性バイアスという内容について解説します。

心理学とかカウンセリングのお勉強をされている人は確証性バイアスというのは聞いた事ぐらいはあるかと思います。

この確証性バイアスを超簡単に説明しますと

「確証バイアス」とは、認知バイアスの一種で、自分にとって都合のいい情報ばかりを無意識的に集めてしまい、反証する情報を無視したり集めようとしなかったりする傾向のことをいいます。

この確証性バイアスは私達の日常生活に於いて色んな場面で無意識に活用されています。

例えば、片想いの人が恋占いにうつつをぬかす為にお金をつぎ込む現象があります。

自分に都合よく解釈してくれる物語のパターンに嵌められたいだけなのに、まるでお相手の事を超能力で読み取るかの様な一般論を自分の為だけのユニークな情報として欲する、あれです。あるあるあ~るですね。

片想いしている段階で揺れる人や、結婚願望の強い人や、大衆心理の空気感を読めなくなってしまった地位にしがみつきたい政治家等は、現実の世界の中にある、生きて動いている相互的な営みについて、客観的な判断を下しにくいものでしょう。何故なら、その状況自体に巻き込まれている為に、自分が書き込んだ欲望の色眼鏡が客観的に物事を見えなくさせているという事実があるからです。

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また、そのように客観的になれないのが人間の性(さが)なんだと刷り込まれているのが現代人の一般的な情報産業化された社会での私たちの知的な状況ではないでしょうか。まぁ、当たって砕けろの精神の人には関係ないとも言えないわけで、コミュニケーションにおける事後的な歪曲という現象は毎日のようにおこなわれているわけです。

こういう心理機序、思い込みと主観的幻想や妄想に留まりたいという願望は、人間心理にアロンアルファのように張り付いて離れないもののように、世間的には語られるポピュラーな大衆心理的な現象だと誰もが知るところでしょう。

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本来なら、自分が巻き込まれている相互的な営みに対して分析的に評価する為には、その状況事態に利害関係のない観点から眺める視点を自分が見出さなければなりません。全体の関係を俯瞰する第三者目線に自己を移動させる努力が必要となります。

しかしながら、自己愛に取り憑かれたナルシストのナルチシズムに耽溺する、夢から醒めたくない人たちは、思い込みの世界に居続けたいわけです。

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そうなると、状況事態を客観視する為に、自らの手で俯瞰する位置へと動かすと夢から醒めなければならないわけです。思い込みや妄想がもたらす夢の世界から出てゆかなくてはなりません。

ここに、自己愛との葛藤が生じるわけです。この自己認識へと向かう為に手放さなければならない、最大の試練が自己愛と向き合う認識の闘いそのものの中にあります。ですから、自己認識を高める代わりに他者の意見や判断を、自己愛の強化の為に求めて彷徨った挙げ句の果てに、商業ベースに乗ったマルチ商法の真っ只中に吸い込まれてゆくのです。

確証バイアスという認知心理学的用語は、自己愛が幻想のなかで欲望の火に煽られる、快感と不快感の原則が支配する欲望の世界において成立する概念でして、実は普遍的な一般人間的原則とは云えないものだと私は思います。

大衆心理機序を扱う時の常套句として近年バイアス論はもてはやされてきました。人間を観察する時に、バイアス論は、なかなか客観的視点に立ちたくないタイプの人間の為に第三者目線として、専門家を配置して見せました。20世紀心理学者の登場です。

現代では認知脳科学と称され無数の実験心理学のファクト(事実)から語れるものを説得の道具立てにふんだんに使う傾向があり、客観というものが他者からしかもたらされないものという刷り込みが商業的に流行しています。実業の世界においては、第三者機関や、監査業務委託ですね。自己啓発系ビジネス書もその典型ですね。お笑いみたいな現象ですが、自分のお尻は自分で拭くものでは無くなっていく傾向が私たちの社会に蔓延り始めています。

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信じたいものだけを信じるほうが気持ちがよく、楽だからです。

自己認識は、自己と向き合う認識の苦しみを伴うものです。自己認識の代わりに自己愛というナルシシズムに、身を任せるほうが、酩酊状態を楽しめるじゃありませんか。それに大衆心理相手の空気感を扱う商業メディアは、大なり小なり欲得の領域での人間の社会的行動様式の規範的なリーダーとして君臨するものですので、理解をする為に苦痛を伴うような説明概念は、大衆心理に訴求力が弱い為に排除される傾向があります。

大衆には理解しにくい社会現象を解析する時にもお笑い芸人を使うことで社会認識をうやむやにして、次にうつる必要があるからです。ことほど左様に、自己認識へと向かう為には味覚でいう、苦味が必要になるからです。

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苦味を与える論説は嫌われます。自己教育によって或いは人生体験からその苦味を味わった人間は、確証バイアスから初めて自由になる一歩を踏み出したわけです。

という訳で、今回、映画えんとつ町のプペルから感じた不気味な違和感を、元サロンメンバーとしては心苦しいですが言語化させて頂きました。

熱狂的な西野信者が西野商法にどっぷりと浸かり、自分の信じたいものだけを信じる事でこの映画の幻想に快感を覚えるwin-winの関係が成り立っている。ホント信者の人達は気持ちよさそうですね。ただ私はこの不気味な違和感を解明せずにはいられなかった。

ゴメンねゴメンねー。

ただ、これを言語化したからと言ってこのドーピング的な西野商法が終息するかは分かりません。

日本がコロナ禍の中で衰退し不安や不満が高まっている中、人間心理の隙をついたこのような現象は今後も後を絶たないだろう。

現代の資本主義社会が崩壊していく中で、我々は批判や否定したところで代案や解決方法をもたない人は間違いなく、それこそ社会の「弱者」である。でも、弱すなわち善ではないのである。

この世界はよく「善vs悪」という二元論で語られてしまうが、この現象にみられるように「信者vsアンチ」という構図では収まりきらない状況にあるとも言える。

この映画の中で腐るお金「L」というものが描かれており、それによってえんとつ町の経済が廻るという話があった。作者はこの経済システムを導入する事で資本主義の格差問題が解決できると思い込んでいるのかもしれないが、マーケットが拡大するにつれ資本の論理に回帰してしまっている。

結局は映画製作に投資した資本の回収を解決する為に、熱狂的信者がリピート購入を繰り返す事に繋がってしまっている訳で、これは、「シェアリングエコノミー」と言いながらUberがドライバーを搾取して大儲けするのと同じ話である。

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このような問題を抱えた西野商法と西野信者の関係にはやはり不気味さを感じてしまうのである。

ほなまたお会いしましょう。バイバイ~♪

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