シン・日曜美術館『ゴジラ 神曲 春と修羅』6「余談 賢治と坊っちゃん」
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1989年5月某日(日曜)
深読み探偵学校
夏目漱石が「野だいこ」に名付けさせた「ターナーの松」とは『The Golden Bough』…
いわゆる『金枝』のことです。
きんし?
『地獄の黙示録』でマーロン・ブランド演じるカーツ大佐が読んでいたジェームズ・フレイザーの『金枝篇』のこと?
そうだ。
あのターナーの絵は、冥界に旅立とうとするアエネーアースに対し、同行を望んだシビュラが、新しい王の印「金枝」を渡す場面を描いたもの…
シビュラが手に持っているものが、松の木から取った「金枝」ことヤドリギの枝だ。
何だか、冥界に旅立とうとするトシに賢治が渡した「松の枝」っぽくない?
うむ… 言われてみれば確かに…
そして、漱石が「ターナー島」と名付けた岩礁とは…
愛媛松山の沖合に浮かぶ「四十島(しじゅうしま)」のこと…
賢治の「ちらけろちらけろ四十雀(しじゅうから)」には、この「四十島」も掛けてありますね。
漱石は松山の「四十島」を「ターナー島」と呼んだ…
賢治が『春と修羅』の「風景とオルゴール:不貪慾戒」に使った言葉「四十雀」と「ターナー」は、ここから来ていると?
(ちらけろちらけろ 四十雀)
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば
不貪慾戒(ふとんよくかい)のすがたです
(ちらけろちらけろ 四十雀(しじふから)
そのときの高等遊民は
いましつかりした執政官だ)
間違いありませんね。「四十雀」とは「トシ」であり「四十島」のこと。
まさか…
宮澤賢治の『春と修羅』と夏目漱石の『坊っちゃん』に、いったい何の関係が?
おそらく賢治は『春と修羅』を書いている最中に、漱石の『坊っちゃん』を読んでいます…
そして、多くのインスピレーションを得た…
ほ、本当ですか!?
それでは深読みしましょう…
宮沢賢治『春と修羅』と、夏目漱石『坊っちゃん』の深すぎる関係を…
だけど木又先生…
この流れは『デカメロン』や『ゴジラ』からどんどん離れていってませんか?
ダンテの『神曲』と賢治の『春と修羅』は『ゴジラ』と関係あるように思えますが、さすがに漱石の『坊っちゃん』は…
そう思うのは、あなたが『坊っちゃん』の「うわべ」しか見ていないからです。
え?
『ゴジラ』の原作者 香山滋は、日本の戦後の平和ムードを吹き飛ばした第五福竜丸の被爆事件と、賢治のトシへの感傷ムードを吹き飛ばした関東大震災をもとに、恐ろしくも悲しい物語を作り上げました…
そして漱石の『坊っちゃん』にも、『春と修羅』や『ゴジラ』と同じように、恐ろしくも悲しい物語が隠されています…
おそらく賢治は、それに気付いていたはずです。
そうでなければ、あの場面で「四十雀」とか「ターナー」とか出さないでしょう。
『坊っちゃん』の中に「恐ろしくも悲しい物語」ですか?
そんなにスケールの大きな話でしたっけ?
言ってしまえば、直情的で意地っ張りの主人公が上司に盾突いて田舎教師を辞職し、低収入の労働者となって最愛の乳母と二人で暮らしたというだけのストーリーですよね?
ただの「ラストがホロ苦い青春ドタバタコメディ」だったような…
確かに表面的には「それだけ」の話かもしれません…
だけど本当に「それだけ」でしょうか?
あの文豪漱石が、わざわざそんな他愛もない小説を書くと思いますか?
と言いますと?
『坊っちゃん』には、いろいろおかしな点があります…
意味不明な展開、謎めいた言い回し、辻褄の合わない説明、そして妙な匂わせなど、様々な腑に落ちない点が…
そうでしたっけ?
『坊っちゃん』には、いろいろ変なところがある…
実は僕もずっと、そう思ってた…
そして賢治との奇妙な共通点も…
は? クリス君はイギリスで漱石も読んでたの?
僕はこの留学が終わってイギリスに戻ったら、ロンドン大学に行くつもりなんだ…
100年前に夏目漱石が留学したロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン英文学科に…
大先輩にあたる人物の作品くらい読んでおくのは、後輩として当然だろう?
ロンドン大学の英文学科に?
君は深読み探偵にならないの?
もちろん将来的にはなるつもりだ。
だけど僕は文学というものを一度しっかり勉強したい。
それに…
それに?
自由がきく学生という身分のうちに映画も撮ってみたいんだ。
「活動写真」は、子供の頃からの夢だったから…
ああ、そうだった。
君のアイドルは、タルコフスキーやキューブリック、そして宮崎駿だったな。
ちなみにクリス君、あなたが『坊っちゃん』に感じた違和感とは何でしょうか?
そして、あなたが気付いた賢治との共通点とは?
はい…
僕が『坊っちゃん』に感じた違和感は、まず、あまりにも漱石が田舎に対して失礼なところです…
田舎の文化風俗を馬鹿にし、田舎の人を見下したものの言い方をしています…
あれって、愛のある「いじり」じゃないの?
舞台になった松山の人たちは、漱石と『坊っちゃん』が大好きでしょ?
道後温泉は「坊っちゃんの湯」だし、野球場は「坊っちゃんスタジアム」だ。
それは漱石が、近代日本文学を築いた文豪中の文豪、国民的大作家だと広く認知されたからに過ぎない…
もし漱石が正岡子規の友人でもなく、ただの一発屋の三流作家だったら、松山の人たちは漱石を非難し、『坊っちゃん』の出版差し留め運動を起こしていただろう…
ちょうど『ゴジラ』が公開された直後、映画の中でゴジラがド派手に破壊した銀座の商工組合が「縁起でもない」と嫌悪感を示し、アップで映された銀座和光や松坂屋の社長が激怒し、しばらく東宝関係者を出入り禁止にしたように…
ゴジラに破壊された建物の持ち主が激怒した?
そんなことがあったんだ…
今じゃ日本各地の自治体や企業が「ぜひうちの町を」「ぜひうちの建物を」と、ゴジラに蹂躙されたくて誘致合戦をしているというのに…
それもひとえにゴジラが国民的大怪獣になったからだよ。
もしもゴジラが一発屋の三流怪獣で終わっていたら、今でも銀座の人たちから嫌われていただろう。
つまりは「might is right」ということさ…
確かに、いくら「思ったことを口に出してしまう裏表のない江戸っ子」が語り手だとしても、『坊っちゃん』には田舎の人に対する行き過ぎた表現が多々見受けられます…
まるで、少しでも自分が気に入らない人間はすべて地獄に落としてしまうダンテ・アリギエーリの『神曲』のように…
そういえばダンテも大人げないな。嫌いな奴はみんな地獄行きって子供かよ。
他にはどんな違和感がありましたか?
坊っちゃんと下女の清(キヨ)との間の、異常とも思える愛情もそうです…
坊っちゃんが東京に戻ってから、小さな家を借りて一緒に暮らし、同じ菩提寺の墓に入るところも…
あれって実は本当の親子だからなんでしょ?
坊っちゃんの本当の母親は下女の清だって、何かで読んだことある。
それはない。100%ありえない。
えっ? どうして?
確かに当時は家の主人が下女に手を付けて身籠らせてしまうことは珍しくない出来事だった。
しかし、そうなったら本妻の手前、下女はその家には居られない。
世継ぎがいなくて困ってる家なら下女が産んだ子を正式な子にすることもあるだろうが、あの家にはすでに長男がいた。
清が「坊っちゃん」を産んだ後も母子共に主人・本妻・長男と同じ屋根の下で暮らすなんてことは、常識的に考えて有り得ないんだ。
しかも清は、主人がムラムラして手を付けたくなるような、若い娘ではなかった…
なるほど、確かにそうだな。
鬼平こと長谷川平蔵も妾腹だったから、母親は長谷川家に入れてもらえず、平蔵も子供の頃は他所で育てられた…
その「オニヘイ」とやらは知らんが、下女の清が坊っちゃんの実の母親だという見立ては間違っているということだ。
でも、それを匂わせる描写がいくつもあるんでしょ?
なぜ漱石は読み手をミスリードさせるようなことを?
うむ。それは僕にもわからない。
もしかしたら「マドンナ」が関係しているのかも…
マドンナ?
『坊っちゃん』の「マドンナ」だよ!
「野だいこ」が「ターナー島」の上に置こうといった「ラフハエルのマドンナ」だ!
ああ。この絵のこと?
『システィナのマドンナ』
ラファエロ・サンティ
その通り。ラファエロが描く聖母マリアは「幼子イエス」を抱いている…
つまり「イエス坊っちゃん」を…
は? 下女の清は「マドンナ」ってこと?
坊っちゃんにとっての「マドンナ」だ。
坊っちゃんは初めて清と離れて暮らし、その「かけがえのなさ」に気付いた。
世間の人々を知れば知るほど清の心の美しさに惹かれるようになり、心のこもった長文の手紙を読み、ついには清こそが理想の女性だと思うようになっていく。
まさに、賢治にとっての妹トシのように…
つまり「坊っちゃんと清」が母子のように読み取れたのは、二人に「イエスと聖母マリア」が投影されていたからってこと?
そういうことだ。
清は坊っちゃんにとっての理想の女性「聖母マリア」だから、そこに気付かずに読んでいると、まるで親子のように錯覚してしまう…
「清は坊っちゃんの母親説」を唱える人は、まんまと漱石の術中にハマっているということさ。
なるほど。「まんま」だけに…
ちなみに「ラファエロのマドンナ」は、先程の『システィナのマドンナ』だけではありません…
ラファエロは他にも多くの「マドンナ像」を描いています…
他にも? どんな?
たとえば…
手に萎れた花を持った幼子イエスがマリアに何かを訴えかけようとしているマドンナ像や…
『カーネーションのマドンナ』
ラファエロ・サンティ
ガリラヤの海のほとりで幼子イエスを遊ばせるマドンナ像や…
『牧場のマドンナ』
ラファエロ・サンティ
よく似た構図で、小鳥を欲しがる幼子イエスが描かれたマドンナ像も…
『ヒワのマドンナ』
ラファエロ・サンティ
ラファエロは、こんなに数々のマドンナを…
まるでマドンナたちの…
「ララバイ」ですね。歌は割愛します。
よく似た構図の2つのマドンナ像には、服を着た少し大きな幼子もいる…
イエスにお兄ちゃんなんていたっけ?
いるわけないだろう。いたらマドンナが処女でなくなってしまう。
あれは幼い頃の洗礼者ヨハネだ。
ヨハネはマリアの叔母エリサベトの子だから、宗教画ではイエスと兄弟のように描かれることが多い。
前にも習っただろう?
ああ、そうだったね。
だけどヨハネにばっかり服や杖や鳥を与えてイエスは何もないなんて、なぜラファエロはこんな依怙贔屓をしたんだろう?
イエス・キリストは何も持たなくても「すべてを持っている」からだよ。
神には特別なアイテムなど必要ない。
それにしても、こんなに「ラファエロのマドンナ」があるなんて…
いったい漱石はどの「ラファエロのマドンナ」を「ターナー島」の上に置こうとしたんだろう?
うむ。悩むところだな…
ちなみに「ターナーの松」にも、別の「ターナーの松」があります。
『金枝』以外にも?
そうだった!
これだよ岡江君…
『チャイルド・ハロルドの遍歴』
J・M・W・ターナー
チャイルド…?
また「坊っちゃん」だ…
いったいこれは…
漱石は何をしようとしてたんだ?
わからん…
他に『坊っちゃん』で違和感を覚えたところは?
はい…
やはり最後の一文が…
最後の一文? そんなに変な終わり方だったっけ?
語り手である坊っちゃんは、こう締めくくる…
「だから清の墓は小日向の養源寺にある」と…
へ? なぜそれが変なの?
そんなものはないんだ…
は?
東京の文京区「小日向」に「養源寺」はない…
「養源寺」があるのは、同じ文京区でも少し離れた「駒込・千駄木」…
ええっ!?
もしくは、かなり離れた大田区の「池上」にある…
池上って本門寺のある池上?
僕は来日してから暇を見つけては東京の漱石ゆかりの場所を訪ね歩いた…
そして坊っちゃんと清の墓がある「小日向」へ行って驚いた…
「小日向」に「養源寺」はなかったんだよ…
漱石は嘘をついたってこと?
あるわけないもので小説を〆たのか?
そうだ…
小説にとって最後の一文とは、冒頭の一文と同じくらい重要なもの…
それなのに漱石は嘘を書いた…
ありえない…
何を考えていたんだろう、漱石は…
クリス君、今、いいこと言いましたね…
そこに「漱石の嘘」を読み解く鍵が隠されているのですよ…
え?
「小説にとって最後の一文とは、冒頭の一文と同じくらい重要なもの」でしたよね?
『坊っちゃん』の冒頭の一文は?
えーと…
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」です…
冒頭の一文の「嘘」、わかりますか?
嘘?
坊っちゃんが親譲りの無鉄砲な性格だというのは嘘なのですか?
小説『坊っちゃん』は、嘘に始まり嘘に終わる…
こんな初歩的なことを見落とすから、物語全体を見誤るのです…
まあ、それが漱石の企画、「もくろみ」なのですが…
嘘に始まり、嘘に終わる?
つまり『坊っちゃん』は嘘らだけ、嘘にまみれた作品だと?
まるで甲州街道だな…
甲州街道? なぜ道路が関係あるんだ?
RCサクセション、忌野清志郎の歌だよ。
『甲州街道はもう秋なのさ』という歌は「嘘ばっかり」と連呼される。
嘘ばっかり?
「甲州街道」が嘘なのか? 「もう秋なのさ」が嘘なのか?
それとも両方嘘なのか?
いや、そうじゃなくて…
じゃあ何が嘘なんだ?
何って歌詞の…
ん? そういえば何が嘘なんだろう?
何が嘘なのかわからないのに「嘘ばっかり」だなんて、まったくもってふざけた歌だな。
グウ…
ミス・キマタ…
今のは?
失礼しました。
今の「ぐうの音」は、私のお腹の音です。
そういえば、もう1時半だ…
僕らは4時間半もしゃべりっぱなしだったのか…
そりゃお腹すくよね。というか僕もすいた。
この続きは来週にしましょう。
それでは『深読みデカメロン①』は、これにて…
お言葉ですがミス・キマタ…
もう全然デカメロンと関係ない話になってますね…
これはこれで興味深い授業ですが…
『デカメロン』と『坊っちゃん』が「まったく関係ない」と言い切れますか?
しかし両作品には何の共通点も…
『坊っちゃん』は、語り手である作者が登場人物に「あだ名」を付け、劇中もその名で呼ばれます…
これは『デカメロン』と同じ…
え?
あなたは『デカメロン』をちゃんと読んでいますか?
作品全体の語り手であるボッカチオは序章で、登場する10人の男女に「あだ名」を付けます。
それぞれモデルとなった人物がいるけど、本当の名前を出すと差しさわりがあるので、その個性や役割にふさわしい「あだ名」で呼ぶことにする、と語られるのです…
ああ、ミス・キマタ。確かにそうでした…
『デカメロン』に登場する10人の男女の名はすべて、作者がつけたニックネームだった…
つまり『デカメロン』の10人の男女の名前は、「赤シャツ」とか「野だいこ」とか「山嵐」とか「うらなり」とか「マドンナ」とか「坊っちゃん」みたいなものってこと?
その通り。
そして『デカメロン』の10人の「あだ名」に、それぞれのキャラクターが劇中で担う「役割」が落とし込まれているように…
『坊っちゃん』の登場人物の「あだ名」にも、深い意味が隠されている…
そんな、まさか…
『坊っちゃん』を理解することは、『春と修羅』や『ゴジラ』だけでなく、『デカメロン』を理解することにも通ずる…
さあ来週までに、あなたたちなりの深読みをしてみてください…
いったいどんな深読みが聞けるのか、この木又、楽しみにしています…
それでは、これにて。
つづく
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