「ドストエフスキー 地下室の手記⑥ 2の2乗の答えが4しかないって本当ですか?」『深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)& 読みたいことを、書けばいい。』
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2019年9月19日 夜
スナックふかよみ
そういえばさ…
ドストエフスキーは序文で「この手記の著者は架空の人物だけど、存在するのが当然だ」みたいなこと言ってなかったっけ?
イエスの弟子「福音記者ヨハネ」は実在の人物でしょ?
つじつま合わなくない?
そこなんだよ。
ドストエフスキーが序文であんなふうに「回りくどい」言い回しをしたことにも、深い意味があるんだ。
福音記者ヨハネこと「ベツサイダのヨハネ」には、少しややこしい事情があるんだよね…
使徒ヨハネ(ベツサイダのヨハネ)
エル・グレコ
ちなみに、こんな序文でした。
この手記の筆者も『手記』そのものもむろん、架空のものである。が、それにもかかわらず、かかる手記の作者のごとき人物は、わが社会全般を形成している諸条件を考慮にとり入れてみると、この社会に存し得るのみならず、むしろ存在するのが当然なくらいである。
『地下室の手記』序文(米川正夫訳)
ヨハネは架空の人物だけど存在するのが当然ってこと?
意味わかんない。
新約聖書には「ベツサイダのヨハネ」が著者だとされる書が2つある。
四福音書のひとつ『ヨハネによる福音書』と、巻末に収められた『ヨハネの黙示録』だね。
そして信徒に宛てられた手紙が3通。これが『ヨハネの手紙1~3』だ。
これらをまとめて「ヨハネ文書」と呼ぶ…
だけど「ヨハネ文書」は、使徒ヨハネこと「ベツサイダのヨハネ」が書いたものではない…
少なく見積もっても、ヨハネの名をかたる三人の著者が存在する…
えっ?
おそらく『ヨハネによる福音書』の中で、この書の著者のことを「イエスの愛しておられた弟子」と表現して特別視したことが大きかったんじゃないかな。
だから後世「使徒ヨハネ」を名乗る人物が現われたんだと思う。
だけどさ…
なんでドストエフスキーは、そんなことにこだわったわけ?
「架空かもしれないけど、存在するのが当然だ」なんて、なぜ言い張ったのかしら?
西欧旅行でショックを受けたからだよ。
え?
ドストエフスキーは、1862年に初めてパリやロンドンを訪れた。
当時の世界の中心ね。
よほど衝撃だったのか、翌年の1863年にもまた西欧への旅に出るの。
そして1864年に『地下室の手記』を書き上げた。
当時の西欧を覆っていた思想に対する、ドストエフスキー自身の反論として…
西欧を覆っていた思想?
当時の西欧は、1859年に発表されたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』によって、大論争の真っ只中にあった。
これまでは聖書の記述通りに「神の姿に似せられて人間は作られた」と誰もが考えていたんだけど、ダーウィンは「科学的にみると、人間はサルから進化したとしか考えられない」と仮説を立て、世界観を根底から覆してしまったんだね。
さらにはルイ・パスツールが『自然発生説の検討』を発表し、「無生物に命が吹き込まれて生物になることはない」という論を展開した。
これによって「神が土から人間を作った」という世界観は窮地に陥ったんだ。
そうして、人々は、考え始めた。
人間は「神に作られた不完全な被創造物」ではなく「神に近付きつつある存在」であると…
最後の審判でメシアが人間を救ってくれるのではなく、科学と理性の力で人間が自ら地上世界に理想郷ユートピアを作り出すんだと…
・・・・・
それだけじゃないわ。
19世紀中頃は、科学技術の爆発的な発展により、人間には不可能だと思われていたことが次々と実現していたの。
蒸気機関による大量生産、高速移動、そして海底ケーブルによる大陸間の電信…
さらには、これまで説明がつかなかった自然現象のメカニズムも次々と明らかになった…
だから人間の心の中も、天気や季節の移り変わりみたいに、科学的にすべて説明が出来ると考えられたのよね…
そして人々は、これまでは「魔法」や「神業」だと思われていたようなことが目の前で解明されていくのを見て、こう考えた…
「昔の人は科学を知らなかったから、珍しい自然現象を奇跡と勘違いしたのだろう」
それって、まさか…
人々は聖書を懐疑的に見るようになり始めた。
イエスが行った「奇跡」の数々は、何かの見間違いだったのではないかと。
そして聖書から非科学的なことを排除して、イエスを「ひとりの人間」として考える人々が増え始めた。
科学的に説明のつかない「神の子・救世主キリスト」という物語から「人間イエス」を切り離して考えようというムーブメントだ。
中でも『ヨハネによる福音書』は矢面に立ったのよね。
他の福音書と違って「神とイエスは《父と子》である」ということを前面に押し出してるから。
ドストエフスキーはロシア正教徒。正教会は『ヨハネによる福音書』を重要視する宗派だから、余計にショックだったんだと思うわ。
「科学と理性」万能主義に浮かれ、非合理的・非科学的なものには価値がないと切り捨てる社会の風潮…
「人間は自らの手で《悲しみも苦しみもない理想社会》を作ることが出来る」と叫ぶ人々…
これらに反論する形で『地下室の手記』は書かれたというわけ。
序文でドストエフスキーは、こう言いたかったんだよ。
科学的に見れば、「ヨハネ文書」を書いた「福音記者ヨハネ」は架空の人物だと言えるかもしれない。その内容も、確かに非論理的で非科学的だ。しかし、そうだからといって無価値であるはずがない。いっけん矛盾したものの中にこそ、人間の、そして世界の真実がある。
なるほど。確かにそうかもしれません。
だからドストエフスキーは『地下室の手記』の中で「2の2乗」をキーワードにしたのよね。
「確かに2の2乗は4だが、それ以外の答えを切り捨てる社会は間違っている」と…
なんだか『スリー・ビルボード』みたいじゃん。
主題歌『Buckskin Stallion Blues』の歌詞にあった暗号「3と4が7なら、1と2はどうなる?」っぽい。
あれは確かイギリスのわらべ歌に対応してたのよね。
「男と女のことが秘密なら、悲しみと喜びはどうなる?」というメッセージが隠されていた…
One for sorrow
Two for joy,
Three for a girl,
Four for a boy,
Five for silver
Six for gold,
Seven for a secret,
Never to be told.
Eight for a wish,
Nine for a kiss,
Ten for a bird,
You must not miss.
ということは、また数字を使った暗号になっているとか…
その通り。
ドストエフスキーの「2の2乗」は、ある人物の名前を意味している。
2の2乗?
わかったわ!玄奘三蔵ね!
は?
だって歌にもあったじゃないの。
♫ニンニキニキニキ ニンニキニキニキ ニニンが三蔵 ♪
写真と歌が合ってない(笑)
しかも流れ的には「ニニンがヨハネ」じゃない?
うまいこと言うわね。
「2の2乗」のジョークは、ロシア語じゃないとわからないんだよ。
ロシア語で書かれた「ある人物」の名前は、ローマ数字の「2の2乗」つまり「ⅡのⅡ乗」みたいに見えるんだ…
確かにそう見えなくもないけど。
ところでコレ、なんて読むの?
「イイスス」だよ。
日本語で言うところの「イエス」のこと。
「2の2乗」は「イエス」?
「2の2乗の答えが4しかない世界は間違ってる」でしたよね?
ドストエフスキーは何が言いたかったんでしょうか?
「イエスは人間以外の何物でもない、という世界観は間違っている」
ドストエフスキーは、そう言いたかったわけだ。
だからこんなジョークで締めた。
「2の2乗の答えが4以外でもいいじゃないか。それが5だったりしてもチャーミングだ」
へ? どういう意味?
これは「イエスがキリストでもいいじゃないか」というジョークなんだよ。
「イエス・キリスト」はロシア語で「Иисус Христос」と書く。
「X」はローマ数字で「10」だよね。
本来は「2の2乗が10(イエスがキリスト)でもいいじゃないか」と書きたいところなんだけど、それではすぐにバレてしまうから、ドストエフスキーはオチャラケて「5」にしたというわけ。
なるほど。ローマ数字のトリックか…
「vivi」という名前を鏡文字にして、ギリシャ語の「Ίησοῦς Χριστός(イエス・キリスト)」を表現した米津玄師みたい…
じゃあ『地下室の手記』「第一部」のテーマは、イエス・キリストなのですか?
「第一部」だけじゃない。「第二部」も含めた全体でだ。
『地下室の手記』は、現在の「わたし」が語る「第一部」と、若き日の「わたし」が語る「第二部」に分かれていた。
「第一部」と「第二部」は、まったく異なる内容だけど、実は細部にわたって連動している。
連動?
「第一部」と「第二部」の物語、この2つを合わせると「ひとつの物語」が出来上がるようになっているんだ。
まるで『ライフ・オブ・パイ』でパイが語った「現在」と「過去」の物語みたいに…
それって、まさか…
そう。
『地下室の手記』の「第一部」と「第二部」を融合させると、イエス・キリストの物語「福音書」が出来上がる…
ドストエフスキーが愛した『ヨハネによる福音書』が…
マ、マジで?
『地下室の手記』の「第一部」は全11章、「第二部」は全10章…
つまり全21章…
これは『ヨハネによる福音書』の全21章に対応している…
ぐ、偶然じゃない?
決して偶然ではない。
ドストエフスキーは「イエス・キリスト」や「シモン・ペトロ」や「イエスが愛しておられた弟子」いう言葉を使わずに『ヨハネによる福音書』を再現してみせたんだ。
だから「第21章」の最後、つまり結びの言葉は、こんな文章で締めくくられた。
とはいうものの、この逆説家の『手記』はこれだけで終わったのではない。彼は我慢しきれないで、またさきを書きつづけたのである。しかし、やはりもうこのへんでとめてもよかろうと思う。
これは『ヨハネによる福音書』最終章「第21章」の最後の文章そのもの…
ネタバレ覚悟のパロディになっているんだ。
21:25
イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
まあっ!
ふふふ。笑えるでしょ?
細かいところまで挙げたらキリがないのよ。
ドストエフスキー『地下室の手記』は、『ヨハネによる福音書』を別の言葉で書き換えたもの。
ホントですか?
読んでみれば、わかると思う。
1時間もあれば読めるから、疑うくらいなら読んでみたらいいわ。
でも『ライフ・オブ・パイ』もまだ途中なのに、ここで『地下室の手記』を読むなんて…
そうよ。時間がもったいない。
ですよね。無駄だと思います。
そうかしら?
本読む馬鹿が、あたしは好きよ。
え?
ぽえーん。
・・・・・
とにかく、読んでみて頂戴。
そのあとに『ヨハネによる福音書』も忘れずに。
いろんな発見があると思うわ。
何事も一次資料にあたるって大切なことよね…
は、はい…
つづく
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