シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』⑦
前回はコチラ
1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋
読み終わったか?
うん。
どうだった?
改めて読んでみると、考えてたイメージと全然違ったな…
たとえば?
一番驚いたのは「マドンナ」が全然マドンナじゃないことだ…
てっきり、寅さんシリーズのマドンナみたいなものだと思い込んでた…
その通り。「マドンナ」が登場する場面は一瞬で、セリフすらない。
名前は何度も出て来るけど、その姿を見せるのは、坊っちゃんが停車場で目撃するシーンだけだ。
そして最後は、没落士族で経済的に苦しい「うらなり先生」との婚約を解消し、帝大卒エリートの教頭「赤シャツ」に乗り換えるという現金な一面を見せる…
ぜんぜん「マドンナ」っぽくないよ…
そんなふうに君がギャップを感じたのは、おそらく映画やTVドラマなど映像化された『坊っちゃん』の影響だろう。
「マドンナ」がまるで「ヒロイン」みたいに描かれているからな。
同じように「赤シャツ」も意外だった…
てっきり、スーツの下に赤いシャツを着た、西洋かぶれのキザな野郎かと思っていたのに…
夏目漱石が描く「赤シャツ」は「洋装」ではなく「和装」だ。
着物と袴と赤いフランネルの襯衣(シャツ)という組み合わせになっている。
しかし、なぜか映像化されると、決まって「洋装」になるという摩訶不思議な現象が…
夏目漱石が見たら、驚いて腰を抜かすだろうな…
どうしてなんだろう?
誰が「赤シャツ」を「洋装」に?
わからん。
初めて『坊っちゃん』が映像化された1935年の映画版では、漱石の描いた通り「赤シャツ」が「和装」で再現されている。
しかし、その次の映像化作品である1953年の映画版では、森繫久彌演じる「赤シャツ」は「洋装」になっている。
戦争を挟んだ18年の間に、世間の「赤シャツ」のイメージが、「和装」から「洋装」に変わったのだろう…
ていうか「坊っちゃん」の外見も意外だった…
「明治の爽やか好青年」ってイメージだったけど、漱石の描く「坊っちゃん」は全然違う…
そもそも「坊っちゃん」は坊主頭だ…
そうなんだよ。
漱石は「山嵐」と「坊っちゃん」の髪型が同じ「坊主」だと書いている。
これも1935年の映画版までは、忠実に再現されていた。
マドンナも、赤シャツも、そして坊っちゃんも…
僕がイメージしていたものは、漱石の死後、世間によって作り上げられたものだったんだね…
『坊っちゃん』に限らず、小説を映像化した作品というのは、かなりのアレンジや変更が施される。
ある種の「翻訳」みたいなものだからな。
木又先生は『坊っちゃん』の登場人物の「あだ名」に、それぞれ深い意味があるって言ってたよね?
ボッカチオの『デカメロン』に出て来る男女10人の名前が、語り手によって付けられた「偽名、ニックネーム」だったように。
そうだな。そう言ってた。
「マドンナ」「赤シャツ」「野だいこ」「山嵐」「うらなり」、そして「坊っちゃん」か…
「清」だって、そうかもしれんぞ。
えっ? 下女のキヨさんが?
だって考えてもみろ。
坊っちゃんの家では、父も母も兄も、そして本人さえも、誰一人として「本名」が明かされないんだぜ?
下女だけ本名で呼ばれるほうが不自然だと思わんか?
なるほど。確かにそう言われてみれば…
あらゆることを疑うのは、推理の基本中の基本だった。
あの宮沢賢治が処女作『春と修羅』の元ネタにするくらいの作品だ。
こいつは一筋縄ではいかないぞ。
それじゃあ各章を、ざっと見て行こうか。
まずは第一章から…
問題の一文で始まる第一章だな。
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
ミス・キマタは、この冒頭の一文と〆の一文が、『坊っちゃん』のすべてを言い表していると言っていた…
語り手は自分のことを「親譲りの無鉄砲な性格で、子供の頃から損ばかりしている」と自己分析する。
たったこれだけのことが『坊っちゃん』という作品のすべてを物語るとは、いったいどういう意味なんだろうね?
わからん。
しかもここから延々と坊っちゃんの「やんちゃ」なトラブルや武勇伝が語られる。
級友の挑発に乗せられた坊っちゃんは、学校の二階から飛び降りて腰を抜かし、父親に「それくらいで腰を抜かす奴があるか」と怒られ、坊っちゃんは「この次は抜かさずに飛んで見せます」と答えた…
坊っちゃんも坊っちゃんなら、父親も父親だ。
これじゃあ「親譲り」なのは「無鉄砲」ではなく「馬鹿」だよ。
本来、親として注意すべきは「二階から飛び降りてはいけない」ということであり、坊っちゃんもそこを反省しなければならない。
だけど「腰を抜かすか抜かさないか」を争点にするなんて、この親子は頭がどうかしてる…
まさに君の言う通り。
この父親にしてこの子あり、だな。
そして次は「ナイフ事件」だ。
自慢のナイフをからかわれた坊っちゃんは、またもや級友の挑発に乗ってしまい、切れ味を証明しようとナイフで自分の右手の親指の付け根を切り裂いた。
そしてこう述懐する。
親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕(きずあと)は死ぬまで消えぬ。
恐ろしいほどのバカとしか言いようがない。
目の前で見ていた級友はトラウマだよな。突然ナイフで自分の手を切り裂いたのだから。
おそらく、かなりの流血の惨事だったろう。もはや狂気、ホラーだ。
これは右手に後遺症が残るレベルの怪我だよ。
少なくとも親指は、あまり動かせなかったんじゃないかな。
つまり坊っちゃんは、右手で筆や箸を使えなかったはず。
ナイフを左手で持っていたから、元々左利きなのかもしれない。
それにしても狂ってる。
その次は「栗泥棒の退治」だ。
隣の質屋「山城屋」の倅が、坊っちゃんの家の庭の栗を盗みに来て、それを力ずくで追い返す話。
ここは少し長い武勇伝だったな。
坊っちゃんの家の裏庭の構造も説明される。
庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。
「二十歩」って狭くない?「行き尽くす」はオーバーだ。
まだ小学生だった坊っちゃんの歩幅なら9mくらいだよ。すぐ目の前じゃん。
確かにそうだな。もっと広いイメージを抱いていたが、よくよく考えると狭い庭と菜園だ…
えー。失礼しますぞな、もし。
おせいさん? 今度はどうしました?
せっせ、せっせ…
またせっせとマイクを? もう「坊っちゃんセット」の「歌」は済んだはずだが?
えー。それではアンコールにおこたえしまして…
アンコール? してませんよ!
遠慮せんでええぞな、もし。
うちがララバイを歌ってあげますぞな、もし。
だからもう、おせいさんの『聖母たちのララバイ』は聴きましたから!
そのララバイじゃなくて、あんたのお国のララバイぞな、もし。
僕の国のララバイ?
それでは御清聴のほどを…
これは、ビートルズの『ゴールデン・スランバー』…
確かに「ララバイ」だ…
お気に召していただけたぞな、もし?
それでは失礼をば…
ええっ? これだけのために?
・・・・・
あっ。マドンナ像の掛け軸の「せいこ先生」の件を聞きそびれた!
失敗したね、クリス君…
・・・・・
それにしても、今のはいったい何だったんだ?
なぜ急に『ゴールデン・スランバー』を歌いに来たんだろう…
・・・・・
どうかしたの? さっきからずっと黙ってるけど…
そうか… わかったぞ…
「36m」だ…
さんじゅうろくメートル?
栗の木までの距離だ!
坊っちゃんの家の庭を抜けた先の菜園の、その真ん中にある栗の木までは「36m」なんだよ!
何言ってんだい。まだ小学生だった坊っちゃんの「二十歩」の距離だから約9mでしょ?
そうじゃない!
君の言う「歩」なら、大人の大股で「四十歩」なんだ!
「二十歩」なのに「四十歩」?
何を言ってんだか意味がわかんないよ…
おせいさんは、それを伝えに来たんだ…
『Golden Slumbers』を歌うことで…
は? おせいさんが?
『Golden Slumbers』は、アルバム『Abbey Road』の曲だ…
それくらい知ってるって。『アビーロード』B面のメドレーの中の曲だ。
では聞くが…
『アビーロード』のジャケットで、ビートルズの4人が歩く距離は「何歩」だ?
そんなの決まってるじゃん。4人だから4歩でしょ?
違う!これは「2歩」だ!
は? 「にぶ」?
尺貫法で使われる、昔の長さの単位だよ!
大人が左右の足を使って「2歩(ほ)」歩いた分の長さを「1歩(ぶ)」という!
メートルで言うと、約1.8mだ!
つまり、漱石が書いた「二十歩(ぶ)」とは、大人の「四十歩(ほ)」のことであり、その長さは約36mになる!
『アビーロード』×10の長さだ!
「歩」は「ほ」ではなく「ぶ」…
そうだったのか…
ルビくらい振っておいてくれたらいいのに…
「歩」が「ぶ」であることは、世の中が尺貫法で回っていた明治時代には常識なんだよ。
余程のそそっかしい者でもない限り「二十歩」を「にじゅっぽ」と読む奴はいない。
やれやれ。たった「歩」の一文字で、ずいぶんと時間を食ってしまったな。
しかし、おせいさんが僕らを救ってくれた…
僕ら stray sheep を、正しき道へと…
本当かなあ…
たまたま偶然じゃないの?
いや。あの女中は只者じゃない。
僕は最初に見た時から、何か引っかかるものを感じていたんだ。
引っかかるものって?
それは、まだわからん…
しかし君も何か変だと思っただろう?
まるで今日、僕らがここに来ることを、予め知っていたような…
うーむ。君の考え過ぎじゃないか?
僕はそういうオカルトめいた考え方には賛成できないな。
世の中には、科学と深読みで説明できないことなんて無いんだから。
じゃあ「愛」はどうなんだ?
「愛」というものを理論的に説明できるのか?
愛だって、きっと数量化できる。
物理学校を卒業した坊っちゃんもそう言ってただろう?
大切な人のことを強く想えば、そのイメージは遠く離れた東京の清さんのもとへ伝わると。
つまり、意識の中で増幅された想いは、まだ未知なる物理現象によって、時空を超えるんだ。
なるほど… 確かに漱石はそう書いていた…
かなりブッ飛んではいるが、これはこれで一理ある…
今の話、ちょっとメモらせてくれ…
なんだい? また君の未来の映画のアイデアに使われるのか?
坊っちゃんは物理学校出の数学教師…
そして宮沢賢治も宇宙物理学者になりたかった…
これにビートルズの『アビーロード』を組み合わせたら…
何か面白いSF映画が出来そうだ…
何をブツブツ言ってるんだ?
さあ『坊っちゃん』に戻るぞ。
すまんすまん。
「栗泥棒退治」の次の武勇伝だな…
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?