シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』②
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1989年5月某日(日曜)
岡江君…
本当にこの道で合ってるのか?
うん… こっちで間違いないと思うんだけど…
学校の裏門から歩いて二三分の距離だと君は言ったよな?
おかしいなあ…
サンドロビッチ先生と来たときは、すぐに着いたような気がしたんだけど…
道を間違えたのでは? 最初に通った十字路を左ではなく…
いや。こっちで合ってると思う。確かこの階段の先に看板が…
あれ?
さっきから蕎麦屋どころか飯屋のひとつもありゃしないぞ。
行けども行けども延々と細い坂道で、塀や石垣やその向こうの樹々以外には何も見えやしない。
本当にこの道で合ってるのか?
うーん… そう言われると自信がなくなってきた…
こんな景色、学校の周りで見たことないし…
やれやれ。やっぱり僕たちは迷子のstray sheepだ。
誰かに尋ねてみようか…
道を尋ねるにしても、人っ子ひとり歩いちゃいない。
あそこの塀の上を猫が歩いてるだけだ。
やっぱり君の言う通り、さっきの四つ角を右だったのかも…
ちょっと戻ってみようよクリス君…
僕は腹ペコなんだ。こんなに坂道ばかり歩かされちゃたまらん。
しかも空まで怪しくなってきた。
ホントだ。空気もひんやりしてきた。
こりゃァ、ひと雨来そうだな。
あっ… きた…
くそォ。踏んだり蹴ったりだな。
ぐずぐずしていられん。さあ急ぐぞ!
おかしいなあ…
天気予報じゃ今日の降水確率は0%だったのに…
そんなこと言ってる場合か!
こうして現実に降っているんだから仕方ない!
おおかた神様が昼寝をする前にシャンパンでもがぶ飲みしたんだろう!
何それ?
僕の乳母がそう言ってた!
晴れた日の突然の夕立は、昼寝前にしこたまシャンパンを飲んだ神様の尿意が夢の中で投影されたものだってね!
投影? ていうか「シャンパン」はおかしいだろ?
は?
シャンパンというのはフランスのシャンパーニュ地方で作られるからシャンパンなんだよ。
神様が飲むシャンパンは天国製だろうから、それはシャンパンではなくスパークリングワインだ。
そんな話はどうでもいい!
『坊っちゃん』の瀬戸物問答か!
瀬戸物問答?
坊っちゃんは「伊万里焼き」を「瀬戸物」と呼び、下宿先の骨董屋の主に突っ込まれた!
「瀬戸物」というのは、狭義の意味では「瀬戸内沿岸で作られた焼き物」のことを指すからな!
ん? 瀬戸物の瀬戸って瀬戸内の瀬戸だっけ?
他にどこがある?
「瀬戸」は海沿いの町じゃなくて、どちらかというと、山の中だったような…
じゃあ小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』はどうなんだ?
♬瀬戸は日暮れて 夕波小波 あなたの島へ お嫁に行くの♬
どう考えても瀬戸は海沿いの町、瀬戸内エリアの町だろう?
そうだけど… なんか違うような気がする…
「瀬戸物」って、京都より西じゃなくて、東だったような…
また「うろ覚え」で物を言うのか?
君の方向音痴は『坊っちゃん』の「清(キヨ)」並みだな…
うわぁっ!
なんてこった!
君がくだらないことばかり言うから、雨がひどくなってきたじゃないか!
本降りだ!どうしよう!
岡江君!あそこに門が見えるだろう?
とりあえずあの門の下で雨宿りしよう!
ふぅ。驚いた。
土砂降りの中、男二人が門の下で雨宿りか…
まるでクロサワの『羅生門』だな。
ごめんクリス君…
僕があやふやな記憶で「いい蕎麦屋を知ってる」なんて言ったから、こんなことに…
しかし岡江君…
どうやら天は我らを見放してはいないようだ…
え?
天麩羅蕎麦の神様は、僕らを見捨てなかったということさ。
どういうこと?
上を見てみろ。大きな木の板の看板があるだろう?
看板?
あれは何て書いてあるのかな… 達筆過ぎて読めないや…
まさか本当に「羅生門」じゃ…
あれは「羅生門」ではない…
おそらく「やぶつたや」と書いてある…
やぶつたや?
「藪」と「蔦」と「屋」だ。
中を見てみろ。ここから続く小路の先に、鬱蒼とした竹藪に囲まれた建物が薄っすらと見えるだろう?
うん。あれが「藪蔦屋」、つまりお店だと?
「蔦」とは「長く伸びるもの」であり「長寿・繁栄」のシンボルだ…
そして「藪」といえば…
そば?
ビンゴ。
哀れな二匹のstray sheepは、天麩羅蕎麦の神様の思し召しで、別の蕎麦屋へ導かれたということさ。
だけど、この門構えと広大な敷地… ただのお蕎麦屋さんじゃないよね…
きっと料亭みたいな超高級店だよ…
そば一杯で何千円もするかも…
心配するな。僕はカードを持っている。支払いは僕の父だ。
いくらカードがあっても、僕たちみたいな学生風情は追い返されるんじゃないかな…
「ここは子供の来るところではない」って…
しかもこんなにズブ濡れだし、店の人に嫌がられるよ…
しょうがないだろ。この土砂降りなんだから。
門前払いされたらそれまでだ。行くだけ行ってみよう。
あっ… 待ってよクリス君…
待ってったら…
ふーむ。予想以上に豪勢な玄関だな…
まるで大名の武家屋敷だ…
学校の近くにこんな建物があったなんて…
ちっとも知らなかった…
中から蕎麦のいい香りがする。やっぱりここは蕎麦屋だ。
さあ入ってみよう。
すみませーん!
誰もいないのかな…
もしかしてランチタイムが終わって休憩時間とか…
やっぱり帰ろうよ…
おっ、店の人が出て来たぞ。
いらっしゃいぞな、もし。
お店、やってますか?
2人なんですけど。
やってますぞな、もし。
さあ靴を脱いでお上がんなさいぞな、もし。
だけど僕たち、見ての通りズブ濡れなんです…
座敷を汚すと悪いから、テーブル席が…
テーブル席? そんなものはないぞな、もし。
えっ? ないんですか?
うちはすべてお座敷ぞな、もし。
気にせんでお上がりなさいぞな、もし。
しかし、お婆さん…
はぁ?
小声(く、クリス君。ダメだよ。こういう場所では「おねえさん」って呼ぶんだ!)
小声(ええっ!?どうして? どう見ても…)
小声(しっ!声が大きい!)
ぜーんぶ聞こえてますぞな、もし。
わてを呼ぶなら名札にある名で呼んだらいいぞな、もし。
名札?
お婆さん、清(キヨ)って名前なんですか?
・・・・・
クリス君!だから「おねえさん」だってば!
キヨさんがキョトーンとしてるじゃないか!
誰がキヨさんぞな、もし。
え? だって名札には「清」と…
他にも読み方があるぞな、もし。
あっ…「シン」か…
日清日露の「シン」だ。
なるほど。「おしんさん」でしたか…
誰が「おしんさん」ぞな、もし。
それじゃあ大根メシぞな、もし。
「キヨ」でもなく「シン」でもない?
他に読み方あったか?
キヨシ?
あほか!それは内山田だろう!
内山田はヒロシだよ。キヨシは前川。
ボ、ボケただけだ! いちいち突っ込まなくていい!
ヒントは『枕草子』ぞな、もし。
まくらのそうし?
あっ!わかった!「セイ」だよ!
清少納言の「セイ」だ!
今、何と言うたぞな、もし?
清少納言の「セイ」…
物語の読み過ぎで現実と妄想の区別がつかなくなり、自分を騎士だと思い込んでしまったスペイン人の男の名前は?
は? それはドンキ・ホーテでしょ?
岡江君!ドンキ・ホーテではなくドン・キホーテだ!
え?「ドンキ」がファーストネームじゃないの?
そんな密室殺人の凶器みたいな名前があるか!
「ドン」はファーストネームではなく紳士につける尊称だ!
君の言う「ドンキ・ホーテ」は、ドン・ガバチョをドンガ・バチョと言うようなものだぞ!
淑女の場合は「ナ」が後ろについて「ドンナ」になるぞな、もし。
つまり聖母マリアを意味する「マ・ドンナ」のドンナは、「ドン・キホーテ」のドンの女性形ぞな、もし。
その通りです!
「マ・ドンナ」のドンナは、「ドン・キホーテ」のドンの女性形!
そうなんだ… 知らなかった…
そして『枕草子』は「清少・納言」ではのうて「清・少納言」ぞな、もし。
「源(みなもと)」さんとこの人が「源氏(げん・じ)」と呼ばれるように、「清原(きよはら)」さんとこの娘だから「清少納言(せい・しょうなごん)」ぞな、もし。
ああ、そうだった…
「少納言」が役職だとは知っているのに、なぜか「せいしょう・なごん」って言ってしまうんだよなあ…
漢字の四文字熟語みたいに、つい真ん中で区切ってしまう…
おいおい。僕たちは何を話してるんだ?
今は座敷に上がるか上がらないかの話だったろう?
そうでしたよね、えーと…
「おせいさん」ぞな、もし。
そう。おせいさん。
僕たちは見ての通りびしょびしょです。これではさすがに…
風呂に入って浴衣に着替えるから大丈夫ぞな、もし。
風呂?
ここに来るお客さんは、みーんな風呂に入ってサッパリしてから、蕎麦を召し上がるぞな、もし。
ここは湯屋でもあるのですか?
そんな蕎麦屋は初めて聞い…
ひーっくしゅん!
ほらほら、早くせんと風邪をひいてしまうぞな、もし。
いい湯じゃて、ゆーくりあったまるがいいぞな、もし。
お風呂に入って、浴衣に着替えて、お蕎麦を食べる…
これで大広間で歌謡ショーでもあったら、まるで健康ランドみたいだ…
健康ランド? 何だそれは?
イギリスにはないのかな。こういうところだよ。
GOTO HEAVEN… この世の極楽か…
さあさあ、遠慮せずにお上がりになって…
男湯はこちらぞな、もし…
つづく
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