シン・日曜美術館『夏目漱石の坊っちゃん』③
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1989年5月某日(日曜)午後
藪蔦屋
大浴場
ふぅ。いい気持ちだなあ。
文字通りGOTO HEAVENだよ。極楽極楽。
雨もすっかりやんでしまった。あの土砂降りが嘘みたいだ。
今となっては土砂降り様様だな。僕らを天国へ導いてくれたんだから。
君の方向音痴にも感謝しなければ。
見渡す限りの竹林も見事だね。
まるで竹取物語の世界、平安時代に迷い込んだみたいだ。
こんなところが深読み探偵学校の近所にあったなんて…
寮の狭いシャワールームとは月とスッポン。これからは毎日学校帰りに通うぞ。
ガラガラガラ…
ん? 脱衣所の戸が…
他にも誰かお客さんかな?
お二人さーん、湯加減はいかがぞな、もしー?
ああ、おせいさんでしたか!
お湯は最高です!
こんな素晴らしい風呂に入ったのは人生で初めてです!
この世の楽園、極楽浄土とは、まさにこのこと!
アーハハハ。これはまた随分と大袈裟ぞな、もし。
お世辞ではなく本当ですって!
歌にもあるでしょう?
♬湯~、湯~、湯~、神に誓うよ~♬
おやおや。この外人さん、冗談もお上手ぞな、もし。
お風呂だけでなく、僕らの濡れた服まで乾かしていただけるなんて、本当に至れり尽くせりで…
どうもありがとうございます。
背中も流してあげますぞな、もし。
はい?
お背中 流して差し上げましょう、言うちょるぞな、もし。
ほんなら失礼をば…
ちょ、ちょっと待ってください、おせいさん!
せ、背中を流すって!?
遠慮せんでもええぞな、もし。
ほんのサービスぞな、もし…
え、遠慮じゃなくて…
僕たち十代ですよ!
なるほど。こんな婆さんじゃ不満ぞな、もし…
そんなら若い娘を呼んできますぞな、もし…
ちょうど先日入ったばかりのピチピチの新人が…
おせいさん!そういう問題じゃないんです!
僕らはまだ少年、十代の未成年なんですよ!
新人のお千もあんたらと同じ十代ぞな、もし。
ピチピチの十歳じゃて…
じゅ、10歳!?
それは別の意味でさらにマズい!
ぼ、僕らは僕らで背中を流し合いますから結構です!
男二人で? あんたら「やじきた」ぞな、もし?
は?
ほんまにお背中流さんでもええぞな、もし?
はい!それでええぞなもしです!
わかりましたぞな、もし。
ここに浴衣を置いときますんで、上ったら着ておくれぞな、もし。
ガラガラガラ…
やれやれ。「お背中 流して差し上げますぞなもし」には参ったね。
『YOU ONLY LIVE TWICE』の「おもてなし」は本当だったのか…
西洋人が日本に抱く妄想、ファンタジーだと思ってたよ…
『007は二度死ぬ』に出て来るお姉さんたちは、それ専門の人「湯女(ゆな)」だけどね。
おせいさんのような仲居さんとは違う。
どうする? 僕らの座敷に本物の湯女が来たら…
それはさすがにないだろう。
『坊っちゃん』の時代までは町の銭湯なんかにも普通にいたらしいけど、今は特別な場所にしかいない。
僕たちみたいな子供は、そういう店には入れないよ。
わからんぞ。
まるで大名の武家屋敷のような建物、美しい庭園を眺めながら入る風呂…
ここは『007は二度死ぬ』のあの場所そっくりじゃないか…
確かにそうだけど… 僕、まだ…
ははは。なにを真顔になってるんだ(笑)
冗談だよ冗談。
ひどいなあクリス君…
それにしても、こんなことが学校の連中に知れたら、ちょっと面倒かもしれん。
坊っちゃんみたいに冷やかされて、出入り禁止にでもなったら最悪…
ここへ来たことは絶対に内緒にしよう。僕たちだけの秘密だ。
うん。
さて、そろそろ上がるとするか。
身体もリフレッシュしたことだし、いよいよ天麩羅蕎麦とご対面といこう。
その前に三ツ矢サイダーで乾杯だね。
ああ、そうだった!
風呂上りのサイダーはきっと五臓六腑に染み渡るぞ!
脱衣所
ふぅ。気持ちいい。やっぱり湯上りは浴衣に限る。
君のは、まるでニューカッスルかユベントスだな。
何それ?
白黒の格子模様でシマウマみたいってことさ。
君だって明治時代の書生みたいだ。
もう交換はしないからな。
あらあら。お二人さん共ようお似合いで。
それでは、お部屋に案内しますぞな、もし。
どうぞこちらへ…
2階?
ええ。2階も座敷になってますぞな、もし。
なにぶん古い梯子段で急になってますので、お気をつけになって…
トントントントン…
おお。すごいなあ。廊下の向こうまで座敷が並んでるぞ。
本当に道後温泉みたいだ。
僕たちの座敷はここですか?
えーと、青果の間?
いえいえ。ここじゃありませんぞな、もし。
「青果の間」とはまた珍妙な名前だな。
なぜ蕎麦屋の座敷なのに八百屋みたいな名前なんだ?
「青果」ちゅうのは「真山青果」のことぞな、もし。
まやま・せいか?
やはり真山さんという人が営む青果店、八百屋じゃないか。
そうじゃないよクリス君。
「真山青果」というのは、明治・大正・昭和にかけて活躍した文人だ。
真山青果
1878年(明治11)- 1948年(昭和23)
ああ、あのマヤマか。
赤穂浪士の敵討ちを描いた名作歌舞伎『元禄忠臣蔵』の作者だな。
ミゾグチの映画版はロンドンで観たことがある。
だけどなぜ真山青果の間?
中を見ればわかるぞな、もし。
障子を開けて御覧なされ。
いいんですか? じゃあ…
ん?
なんだ… これは…?
見ての通り「真山青果の間」ぞな、もし。
壁一面に、びっしりと引き出しが…
これはいったい…
いろんな生薬が入ってるぞな、もし。
しょうやく?
もしかしてイモリの黒焼きとかミミズの干物とか?
それじゃあ魔女のスープだよ。
生薬というのは、朝鮮人参とか牛蒡子の種とか、いわゆる漢方薬みたいなものだ。
CMなんかでも「○○種類の生薬配合!」って謳われるだろう?
なるほど。滋養強壮剤とか入浴剤に入ってるやつか…
しかしなぜ作家の部屋に生薬の引き出しが?
真山青果センセーは作家になる前「薬剤師」をしとったぞな、もし。
これは当時の職場の再現ぞな、もし。
それは知らなかった…
しかし、壁一面の引き出しというのも、これはこれで趣がある。
ここで食う天麩羅蕎麦も悪くはなさそうだ…
あいにく「青果の間」は先約が入っとるぞな、もし。
向かいにある「斎藤の間」ってのは?
斎藤?
読めたぞ。茂吉だな。
アハハハ。開けて御覧なされ。
僕の見立てでは、おそらく病室風の部屋…
薬剤師の真山青果と来たから、次は精神科医の斎藤茂吉だ…
えいっ!
うわっ!まぶしい!
な、なんだこの部屋は…
だから「斎藤の間」ぞな、もし。
なぜこれが「斎藤の間」なのですか?
まるで成り上がり者 豊臣秀吉の黄金茶室みたい…
こんな悪趣味な部屋で天麩羅蕎麦を食ったら、頭にウジが湧きそうだ。
別の部屋にしよう。
えーと、隣の部屋は…
お隣は「鷗外の間」ぞな、もし。
今度は外さないぞ。ここは森鷗外だな。
森鴎外
1862年(文久2)- 1922年(大正11)
ご名答~(笑)
この部屋は「絶景」が売りぞな、もし。
絶景?
パノラマ展望窓から海が見えるぞな、もし。
海? ここから東京湾が見えるのか?
それはありえないよクリス君。海からは随分と離れているから。
このあたりの20階建て高層マンションの最上階からでも見えやしない。
嘘だと思うなら自分の目で確かめてみるとええぞな、もし。
ほれ。
嘘だろ…
海が… 見える…
これは何かの間違いだろう…
レインボーブリッジはまだ建設中だし、あんなデカいタワーあったか?
この部屋は、本郷区(今の文京区)千駄木・団子坂にあった森鴎外センセーの邸宅「観潮楼(かんちょうろう)」を再現しておるぞな、もし。
2階の窓から海が見える家だから「観潮楼」ぞな、もし。
明治時代の千駄木からは海が見えたかもしれないけど…
現代の新宿区からは、海が見えるはずがない…
そ、そうだよな…
ここの窓から海が見えるなんて、ありえない…
そんなことありえないんですよ、おせいさん!
あたいに文句言われても困るぞな、もし。
如是我聞じゃけん。
じょぜ… 何ですか?
如是我聞。
「かくのごとく、われきけり」ちゅう意味ぞな、もし。
かくのごとくわれきけり?
つまり「又聞き・受け売り」ということ?
あのレオナルドのセンセーも、2階の窓から「ありえない海」が見えとったらしいぞな、もし。
レオナルド? 熊さんですか?
ほんにこの外人さんは冗談ばっかり言うてからに。
レオナルドのセンセーいうたら、ダ・ビンチはんに決まっとるぞな、もし。
レオナルド・ダ・ヴィンチが2階の窓から「ありえない海」を見た?
もしやダ・ビンチはんの『最後の晩餐』を知らんぞな、もし?
バカにしないでください!それくらい知ってますよ!
こう見えて僕たち、アートの勉強もしてるんですから!
しかもただの勉強じゃありませんよ!深読みアート学です!
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』なんて基本中の基本ですからね!
そんなら聞くが『最後の晩餐』の部屋は、どこにあるぞな、もし?
ハハハ!そんなのは朝メシ前!
あの部屋はエルサレム旧市街地の近くにあるシオンの丘に建つ邸宅の2階だ!
『 Il Cenacolo(The Last Supper)』
Leonardo da Vinci
く、クリス君…
海が… 見える…
はぁ? あの建物から海が見えるわけないだろう!
地中海や死海へは、山をいくつも越えねばならぬ!
だけど、ほら…
窓の外に青い海が広がってる…
げえっ!
ちなみに『最後の晩餐』の原画は、聖書の記述と同じ2階の高さの壁に描かれておるぞな、もし。
しかも、あろうことかイエス様の「下肢」が、小さなエレベーターのようなもので消されとるぞな、もし。
ダ・ヴィンチに詳しいんですね、おせいさん…
アハハ。これも受け売り「如是我聞」ぞな、もし。
眺めもいいし、この部屋にしようか…
すみません。ここも先約が入っておるそな、もし。
ぼ、僕は腹が減ってるんだ!
早く僕らの部屋へ案内してくれ!
はいはい。お二人さんの部屋はこちらぞな、もし…
つづく
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