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E3:「宙」を見る。

その日、母は小学校の個人懇談から帰ってくると
神妙な面持ちで息子を呼び寄せた。
「源太、こっちに来なさい」
経験上これから怒られる、というのはすぐにわかった。

「お母さんね、先生と話してきたよ」
その担任の先生との会話が、母にとって
決して楽しいものでなかったであろうことは、
目の前にいる、母の表情が物語っていた。

「あんた授業中、ずっと宙を見てるんだって?」
(ん? ちゅう? チュウ?)
幼い息子は、アホみたいにぽかーんと口を開けた。
「どこか他のところをずっと見ている、てことよ」
(まぁ、確かに。そうかも…)
「お母さん、もう恥ずかしかったわよ」
(なるほど。)


そりゃあ申し訳なかったな、と素直に思う。


しかしそれから、非常に「真面目」な母は
授業中は先生の目を見て取り組みなさい、とか
集中力がいかに大事か、という
至極もっともなお説教を、長時間にわたって始めた。

母はただただ、真面目なのだ。
言っていることは、何も間違っていない。

ただし、その集中力のない子供にとって
このお説教がかえって苦痛だと言うことを
母は分かっていなかった…。

この、本当にぼんやりとした息子を
私の手でなんとかしなければ!
そんな思いで必死だったのだろう。

そして
母が必死になればなるほど、
息子の視線は、またどこか宙をさまよった…。


もし叶うのならば
40年の時を越えて、僕はこの親子を
思いっきり抱きしめてあげたいのだ。


確かに、
僕はいきなり自分の世界に入ってしまう子だった。
何か一つの出来事をきっかけに
頭の中で勝手に面白そうな妄想が
始まってしまうのである。

僕の妄想が始まったきっかけは、
ちゃんとある。

中川李枝子さんの『くじらぐも』
小学校1年生の国語科の教科書作品だ。

実は50年も前から教科書に掲載されている。


こんなストーリーだった。

1年2組の子供たちが4時間目の体育の授業中、
鯨の形をした雲に出会い、仲良くなる。
みんなで力を合わせて「雲に乗る」練習をした後、
全員無事その「くじらぐも」に乗って、
上空から街を眺め、つかの間の空の旅を楽しむ。
授業が終わる頃、雲に学校まで送ってもらい
最後はみんなで手を振って
「くじらぐも」とお別れをする…。


自分の記憶に残るストーリーと、
後年、資料を取り寄せて確認したストーリーは
見事に一致していた。

42年前の記憶である。
驚くほど正確に覚えていた。
少し、胸が熱くなった。


要するに小学校1年生ながら
その話に「ドハマリ」してしまった、ということ。

それからというもの
僕は、窓の外を眺め、

(どの雲なら乗りやすいかな?)
と考え込む日々だった。
担任の先生は、毎日頭を抱えたに違いない。
今更だが、ご迷惑をおかけしたと思う。

妄想はあらゆるきっかけから始まり、
そして、
妄想はいろんなところに広がる。

特に苦手な科目の授業になると、
僕はずっと妄想の世界に入ってしまった…。

教室の外に広がった世界の方が
なんだか楽しそうな気がして、

急に外に立って行きたい衝動に駆られた。
みんなに教えてあげたい衝動に駆られた。

幸いにも(?)
実際に僕が行動に移す事はなかったけれど…。

「妄想の世界」では
僕は常にいろんな形の雲に乗って
いろんなところに飛び出して行った。

真面目に授業を受けるより
そこら辺の雲に乗っかって旅をする方が
絶対に面白い
そう思っていたのに。

夜中にただ寝ているより
こっそりおもちゃ箱から抜け出した
彼らとダンスしている方が
絶対に楽しい
そう思っていたのに。

小学校1年生の源太くんは
今現在の源太を見てどう思うのだろう?


それはさておき
その2年後、小学校3年生の時
僕はある本に出会った。

(1年時とは別の)担任の先生が
時間をかけて読み聞かせてくれた。

主人公の少女は、授業中だと言うのに
席を立った。

僕はどきっとした。
僕にはその勇気がなかったな…。

面白いものをみんなにも見せてあげたい
その一心で、少女は叫んだ
「チンドン屋さーん!」

読み聞かせのクラスは大爆笑だったけれど、
僕はなぜだかその時、涙が出そうになった…。

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