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七夕に「芋の葉の露」で墨を磨る(4)ー何のためか

*これまでの記事
七夕に「芋の葉の露」で墨を磨る(1)ーなぜ露か
七夕に「芋の葉の露」で墨を磨る(2)ーなぜ書くか【スキ御礼】
七夕に「芋の葉の露」で墨を磨る(3)ーなぜ芋の葉か【スキ御礼】


奈良時代以来の七月七日の節会が、唐の乞巧奠の儀式と結びついたのは平安時代から。
乞巧奠の行事は、宮中の行事だったが、平安文化の衰退とともに簡略化された。

室町時代には、梶の葉に歌を書きつけて季節の物を供えるようになり、星祭に歌を手向けることが主な行事となった。

江戸時代には、天皇が、内侍という女官の差し出す書道具と芋の葉の露を用いて、梶の葉に和歌をしたためたという。

江戸時代も末期の天保二年(1832年)に出版された『五節句稚童講釈』(作 山東庵京山  画 歌川國芳)に「芋の葉の露」に関する記述がある(写真)。

【短冊竹の事】
(略)…また歌を詠みて梶の葉に記し、机の左右に立てたる竹に結ひ付けて供ず。この祭を唐土にては乞巧奠きつかうでんといふ。願ひを掛ける祭りといふ事なり。…(略)

【芋の葉の露にて短冊書く事】
これは町方などには芋畑まれなるゆゑせぬ事なれども、昔よりする事なり。七夕様、一年に一度会ひ給ふゆゑ、一夜に百人の子をもうけ給ふといふ俗説によりて、子育て、または子を授け給へと祈る者、芋の葉の露にて願ひ事を短冊へ記して献ぐれば、願ひ事叶ふといふ。芋は子の沢山あるものゆゑに、その葉の露を墨にすることと、昔の書に記せり。芋の異名を露取り草といふも、右のふる事によりてなり。

山東京山 作 歌川国芳 画 歌川国安 画『五節句稚講釈』大平書屋蔵版 1995年

ここでは、江戸時代の後期にあって、京都の宮中とは離れた江戸の町でも、七月七日に芋の葉の露で短冊を書くことが、昔から行われていることが書かれている。
 江戸の町方では芋の葉を手に入れることがすでに難しくなっているとも書かれている。

注目するのは、本書では芋の葉の露を用いる目的が、子育て、または子授け祈願になっていること。

なぜこんなことになったのだろうか。


☆江戸時代の七夕の市中の風景が『名所江戸百景』描かれています。
おうよう さんが記事にされています。ご紹介します。

(岡田 耕)


*参考文献
  窪寺紘一『公武行事歳時記』世界聖典刊行教会 1992年

*(5)まとめ(最終回)に続きます。(近日投稿予定)


ありがとうございました。

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