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#10『絵本と童話のユング心理学』山中康裕

 私はユングが好きで、最近は童話や昔話にとても関心がある(⇒『昔話の本質』マックス・リューティ『メルヘン論』シュタイナー)。という訳で、表題で惹かれた。それで買った。結果は、ハズレである。
 何が駄目なのかと言うと、ユング派の研究者が好きな絵本や童話について喋っているだけで、本質にまで深く入り込んでいない。上澄みを滑っている程度なのである。
 カルチャーセンターの講義の文字起こしのようなので、いくらか軽いのは無理もない。しかし全体に系統立っていない。読み終わった後、「何を教わったんだっけ」という手応えが残らない。

 確かにユング心理学は難しい。しかし浅く扱うと実に意味がないものに落ちるというのが分かる好例。どういうふうに語ればこの本は良い本になったのだろうか?

 つまらない本なので感想文無用の気もするのだが、書きつつ考えてみる。

 まず題材となる絵本の選び方が良くない。ユング心理学の対象にするには適していないものが多い。そして一作当たりに割く言葉の量が少ない。だからものによってはただの紹介程度で終わってしまっている。『ユング心理学者が勧める、私の好きな絵本と童話』なら許せる。
 次に実際の人物の症例や感想を取り入れようとしないのが良くない。そもそもユングは精神病の奥底にあるものを覗き込む内に、物語の構造とエネルギーが沈殿していることに気付いた。それを敷衍して、患者の幻覚や夢が様々な神話や伝承などと同じ根を共有していることに気付いた。ユングの学説は、人間の集合的な心象風景と個人の心象風景は一致しており、それが「自己実現」という方向を指している、という点を主張している。
 ユングの主張の力強さは(それが絶対中立的に正しいとは私は思っていないが)「ほら、こんな実例がある。ほれ、これも、これも」という形で示し続けた所にある。しかしこうした取り組みは全てのユング派のみならず心理学者が負担し続けなければいけない基本的な「手間」であると思う。それを割愛すると「心の構造はこうなっているんですよ」という解説に終わり、絵本の読み方に対して固定的な解釈を与える助けにしかならない。
 例えばだが、「こんな子供がいた。その子供はこんな問題を持っていた。しかしこの絵本を読むとこう変わった。この子供が必要としていた物語がその絵本にはあったのだ。その絵本の内容を、ユング心理学的に解き明かしてみよう」という感じで、じっくり一冊に一章にかけて絵本の中の物語の流れと、子供の実人生の流れを重ねたりしたら、とても説得力があり、感慨深いものになったのではないかと思う。そういうやり方をしていないから、全体にトリビアル(些末な知識的)な印象が否めないのである。
 または同じテーマをいくつもの事例を挙げて説明すべきだった。そういうふうにされている所もあるのだけれど、あくまでも連想的に引用されるにすぎず、これでもかこれでもかと類例を重ねることでパターンが見えてくる、という工夫には至っていない。
 ちょっとこれでは表題に「ユング心理学」を入れるのはどんなものかと思う。

 以上の批評に照らして、一か所だけ良いと思った所がある。それは日本の昔話で、「6体の地蔵が雪に埋もれている。貧乏な笠売りのじいさんは売り物の笠を与え、足りなかったので自分の笠も与えた。地蔵は恩返しをしてくれてじいさんばあさんは裕福に暮らした」というものなのだが、著者の娘が「気に入らん」と言って、書き換えたと言う。それで、こうなった。
 「6体の地蔵が雪に埋もれている。貧乏な笠売りのじいさんは売り物の笠を与え、足りなかったので自分の笠も与えた。でもじいさんとばあさんは極貧の内に死んだ」
 「えっ」と著者は驚いた。しかし続きがある。「そのあと一人の男が地蔵の前を通りかかった。そこには8体の地蔵がいたのでした」

 著者も感動したようだが、私もとても感動した。この話が引用される章の題は『死と再生』。死とは終わりではなく、次の形における生の始まり、つまり〈移行〉である、とユングは言った。
 こんなふうに、「ユング的にはこうですよ」ではなく「私の娘がユングと同じことを言っていた」の方が断然、響く。
 
 何か書くことあるかなこれ、と思いつつ書いたが、書いてみたらやっぱり自分の頭の整理になった。書いてみるもんだ。

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