見出し画像

#3『メルヘン論』シュタイナー

 シュタイナーを読んだのは初めてだった。この本は15年以上前に買ったはずだけれど1頁も読んでいなかった。訳が分かる。難し過ぎるのだ。
 と言っても小難しいのではなく、霊的な体験や知見が充分に備わってからでないと意味が少しも分からないような情報が遠慮もなく押し寄せてくるからだ。私はその方面の事柄を学ぶことにその後の15年を費やすことになったので、ようやくこの本を読んで半分くらい理解できる所まで来たかな、と自分としては思った。
 先日リューティの『昔話の本質』を紹介したが、それを何オクターブも引き上げたような内容が書かれている。
 
 まずシュタイナーはメルヘン(空想的な御伽噺)をどうとらえているのだろうか。

「魂の奥底に極めて漠然とした…意識には上がってこない体験が安らいでいます。そして空腹になると食べ物が必要になるように、魂の奥底での体験に由来する漠然とした気分にも何かが必要です。そこで人は切実な思いでメルヘンや民話を読むか、または芸術的素質のある人は自分で何かを創り出そうとします。…意識的に魂をメルヘンのイメージで満たすことは魂の飢えに栄養を与えることになります」21

 また、こうも。

「魂の営みの不可思議な深みから、刺激に富み、軽やかなメルヘンのイメージにまで道をつける芸術程偉大な芸術はない…子供の中では人間の本性がより根源的な仕方で全存在、全生命と関連しています。だから子供は自分の魂の養分としてメルヘンを必要としているのです」46

 両親の暮らす長野県の富士見市に井戸尻考古館というのがある。そこでいくつもの縄文土器を見ることが出来る。あの複雑で得体の知れない文様を見ていると、我らが遠い祖先の心情が分かる気がしてくるのである。「何としてもこの心の中のもやっとして、ぐるっとして、どろっとした何かを形にしたいもんだなあ…」という呻きが。
 それは私たちのような低次元の感情のどろどろではなく、「何なんだろうこの世界は、この存在しているということは」という問いに関する、答えなど見つかるはずのない無力感と永遠に対する魅惑とが混然一体となった心象風景なのだ。
 それを人はある時には土器で示し、ある時はメルヘンで示した、と私は自分なりにこのシュタイナーの見解を理解する。
 と思っていたらシュタイナーが別の言葉で言い替えていた。

「メルヘンや伝説は決して創作ではありません。…発生の源を太古の時代にもっています。人間がまだ…高度の霊視を有していた時代です。…当時の人々は実際に霊界を体験したのです」66

 「霊界」と言われてもすぐにはピンと来ない人も多いと思うが、この宇宙や、そこに存在することや、このような肉体を纏い、このような感情が体内に充満していることの不思議を深刻に感じ取る能力(少なくともそれを含む、それに近いもの)をシュタイナーは「古代の霊視」と言っていると思う。
 私たちは日頃、断然目先のことばかり考えて、ようやく死ぬ瞬間になって「何なんだろう、生きているって」と思いつく始末だから、そういう意味では古代の人々との在り方には大きな差がある。
 しかし、だからと言って私たちと遠い祖先は完全に断絶している訳ではない。例えば私たちは夢を見る。その全てとは言わないがいくらかの純粋な領域で、太古の人々と同じ風景を見ている。
 シュタイナーによれば夢の世界こそ真実の世界なのである。なぜなら人間の存在の本質は意識であり、その意識が肉体を離れて単独の体験をするのが夢の世界だからだ。
 そして夢は途切れることなく続いている。むしろ覚醒時は、夢という池に上がって来るたまさかの泡のようなものなのである。勿論、私たちの多くはなかなかそうは思えない。しかしそれは誤認であるとシュタイナーは言う。

「人間は自分が夢を見ていると思う時だけ夢を見ているのではなく一日中夢を見ています。実際には魂はいつも夢に満たされているのですが、昼間の意識の方が夢の意識より強いために人間はそれに気付かないのです。弱い光が強い光によってかき消されてしまうように、連続する夢体験も昼間の意識のよってかき消されてしまいます」18

 そして肉体が目を覚ます時、意識は当惑する。この窮屈な場所に帰っていくのか、と。更に広げると、それはこの肉体を纏って生きていかなければならないこの物質世界や人間世界まるごとに対する当惑でもある。そしてこちら側の世界には夢世界と違ってあらゆる物質的制約や規則があり、それをシュタイナーは「自然の諸力」と言っている。

「(眠りから)目覚める時に自然の諸力に対して持つ違和感の体験…自然の諸力の前に人は無力に佇んでいます」39

 この無力感こそが、太古の人々と私たちに共通する霊的体験なのだ。そして深い霊的体験は、土器の模様であれメルヘンであれ、何らかの形で外面化しないと私たちの心は持たない。
 しかし私たちにはその無力感に留まることなく、一歩を踏み出すものらしい。

「「おまえの中にはおまえを超えた何か、おまえを再び自然の諸力に対する勝者たらしめる何かが存在している」このような気分を感じ取る人はメルヘンに巨人が頻繁に登場する理由も感じ取ります。」39

 ここで「あっ」となった。凄く分かる気が…するのである(あなたもそう思ったかしら)。
 そして次の一節で再び「あっ」となった。

「…朝になって再び肉体に入り込もうとする魂が、肉体を占領している、人間の魂にとって巨大な自然の諸力に向かい合っている自分に気付いた時の体験から巨人のイメージが生じてきたのです。…魂はこの戦いの中で、巨人たちに向かい合うには、唯一自分の狡猾さしかないと感じます」40

 オデュッセウスや素戔嗚尊の騙し討ちが思い出されて火花が出たようだった。そうか、それでああいう仕留め方になるのか(ちなみにリューティは巨人と竜をメルヘンの素材として同一視していた)。

 ところで昔、私もよく思うことがあって、今では自分なりに答えが出ていることなのだけれど、なぜ古代の人々はわざわざ「眠りから覚めると体が重い、生きるのがやだ~(矮小化しすぎ失礼)」と直截に語らず、高度な解釈を求める御伽噺に変換したのだろうか。この意味が分からないとシュタイナーのしていることは深読みとかこじつけと思う人もいるだろう。
 シュタイナーは話法の違いについてこう書いている。

「吟遊詩人たちは「ある所に一人の人間がいました。この人間は高次の自我に至ろうと努力し、そのために自分を抑え付けている低次の自我を克服しなければなりませんでした」とは語りませんでした。そうではなく「ある所に一人の王子がいました。王子は馬で遠乗りに出かけ、途中の溝の中から泣き声が聞こえてくるのに気付き、ある善い行いをしました」と」124

 人間はその本質において精神の進化、浄化のために生きている。私もそう思う。目先の事柄を解決したり人気者になったりするためではない。その目的意識をシュタイナーは気高い調子でこう述べている。

「私たちは自分の魂を未発達のまま世界精神に返却することは許されないのだということを知らなければなりません」138

 そしてこの精神の進化は人間個人に留まる話ではなく、人類全体に関する事柄なのである。進化論をすっかり忘れた上で、以下を読んでみる。

「太古の時代に人間は今日と同じ姿形をしていたのでしょうか…人間は全く異なった姿形を経て、ようやく今日の姿形にまで発達したのです。しかし人間が克服し自分の外に脱ぎ捨てたものもまた、全く独自の姿形を纏って現れます。…粗暴な諸力の段階にとどまったもの…人間の前に現れる邪悪なもの…は竜のようなものとして現れます。これらは人間によって脱ぎ捨てさられた本性が、その後霊界において変容を遂げたグロテスクな形態なのです」83

 色々と腑に落ちるものがある。だから退治もしなければならないのである。それは清めた後の掃除のようなもの。そしてその退治は古代に済まされ、その後の世界に今私たちは生きている。私は素戔嗚尊もそうだけれど津々浦々で霊と戦うヤマトタケルの武勇伝なども、このことについて語っているのではないかなあと常々思っている。魔性との戦いがあり、それが済んでようやく人界の物語が始まる。『古事記』の後半は政治史だが前半は「出鱈目な空想」なのではなく、リューティの言う「霊視の世界」だったのではないか。
 ところで「竜」と言うと私たちは縁起の良いものだと思う。しかし思うに竜には二種類あり、特に白人文明では竜は常に悪しきものだったが、わが日本でも八岐大蛇は邪竜だったし、ご存じのように『古事記』においてかなりグロテスクな描写をされている。『古事記』は勿論半分は政治的な意図を持つ書物だけれど、前半の方は各地に散らばる古代の叡智をかき集めたものなのだということが分かってくる。分かって、それが嬉しい。

 この本の内容はまだまだこんなものではないのだけれど、話題が広がりすぎると書くのも終わらなさそうなのでこの辺りで筆を置く。
 書くのが得意と日頃うそぶいている私にも、流石にこの本の感想を書くのは大変に骨が折れた。いずれまた続きを書きたい。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?