「わたしは何をしたいのだろう?」アーティスト・松村かおり論
先日、C C C(静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター)にて行われた、アーティスト・松村かおりさんの批評を書かせていただきました。
例えば、「あなたは将来何をしたいですか?」と聞かれる。
それに対し、①「人の役に立つような仕事をしたい」と答える。あるいは、②「人から尊敬されるようなことをしたい」、もしくは、③「世界中を見て回りたい」、または、④「宇宙飛行士になりたい」などと答える。
それらの答えは、「あなたは将来何をしたいですか?」というこの問いに対し、それを聞いた各主体が、その主体、要するに自己が、自己に対して問いかけた結果として見出されたものだろう。
彼らは想起を行い、自分自身を形作っているもの、主体を主体ならしめている世界と自己との関係を点検し、判断をしたのだ。"自分にとって、価値のある「こと」、価値のある「もの」は何だろう?"と。
①、あるいは②のような答えは、他者との関係、他者の視線の中に、自己を見た結果だろう。③、あるいは④のような答えは、自己が対象に置き入れているもの、その志向性の作用による結果だろう。それは、自己と他者との対話を、自己と自己との対話として内的に落とし込んだものであると同時に、自己と他者、自己と対象、自己と世界との関係に対する主体自身の問いである。
では、今度は、「あなたは何をしたいですか?」と聞かれたとする。
それに対し、a「食事がしたいです」と答える。あるいは、b「歌いたいです」、もしくは、c「映画が観たいです」、または、d「お洒落なカフェで本が読みたいです」と答える。
先程の問いの答えに対し、この問いに対する答えは、より主体の「いま」「ここ」に接近している。それは、aのように身体的であったり、bのように情念的であったり、今まさに主体が自己の内面を投影すべき対象を求めるc、dのようなものであったりする。この問いに対する答えは、他者から発せられ、直接主体の情感に響いた結果聞こえたものである。
2つの問いに対する答えは、どちらも現在から未来へと向かうものであるにもかかわらず、その性質は根本的に異なっている。それは、2つの問いが、同じ個体に内在する主体に対する問いかけでありながら、分裂した別々の主体に対してなされているからだ。1つ目の問いかけにおいて主体が行なった想起とは、自己の自己に対する問いかけであり、そこでは自己が二重になっている。可塑的な基体としての自己に刻まれた他者、対象、世界としての自己と、それを点検する自己。その対話の結果として提出された答え(response)である。
それに対し、2つ目の問いかけに答える主体は、端的な反応(reaction)としての答えである。
とはいえ、2つの問いに対する答えは、どちらも「いま」「ここ」を介した主体性を前提したものであり、ある程度知性的なものだと言える。それは、理念/理性によって、宙吊りにされている。(※1)
しかし、主体によって二重化された「あなたは何をしたいですか?/わたしは何をしたいのだろう?」という問いは、必ずしもそれに答える主体に対して問われているわけではない。その問いが主体に要求しているのは、「自らに内在する欲求を探索し、報告せよ」ということなのである。その問いが本質的に問いかけているのは、主体ではなくその奥にある「欲求」に対してなのだ。主体が答えるその「欲求」は鏡に映ったものであり、主体は「欲求」そのものにはアクセス出来ない。主体は対象、あるいは他者の視線を使って、①~④の欲求に答えようと考えている。しかし、欲求の零度を目指すはずのその主体は鏡に囲まれており、その志向(intentionality)は常に空振りさせられざるを得ない。また、a~dの欲求を充足させようとして動く主体の姿を見れば、それがまとまりを欠いており、①~④の欲求充足のための行動と必ずしも一致/連動していないことが分かる。欲求は本来、主体に対して自律的(autonomy)なのだ。
アーティスト・松村かおりの作品を前にして、わたしは彼女に「これは何を描いたものですか?」と尋ねた。
彼女は「絵筆を持ち、動きたいと思う方向にそれを動かすのです」と答えた。
彼女の制作は、絵筆を持ちながらキャンバスの前に立ち、「わたしは何をしたいのだろう?」と問いかけることである。その問いの答えが、彼女の引く線であり、彼女の打つ点なのだ。
「右に」。「左に」。絵筆はキャンバスを離れ、また接する。彼女は、絵筆を使いながら、その先端にある「いま」「ここ」をずらしていく。絵筆の先端は彼女の中の何ものかを担いながら、キャンバスの上を動く。絵筆は、「わたしは何をしたいのだろう?」の問いに答えていく。それは、上の答え(①~④、a~d)のように、対象と自己、他者と自己を点と点の関係として捉え、線で結ぶようなものではない。絵筆は、あたかも欲求が充足され得ないものであるという性質を受け入れて、自らを運動に還元したかのようである。
彼女の「作品」は、そのプロセスによってキャンバスが埋められたときに、一応の完成を見る。しかし、それは彼女が「描きたい」ものを描き終えたからではない。それは、ある運動が、一定の区切られた時間と空間において一つの終点に達した、ということなのだ。運動は、自らの時間の流れの中で、また新しい空間を求めるだろう。
「わたしは何をしたいのだろう?」
彼女は、何に対して問いかけているのか。また、問いかけている「彼女」とは「何」なのだろうか。
彼女の制作過程は、抽象表現主義の作品群にその親類を見つけ出すことが出来るかもしれない。例えば、絵画を視覚から解放し、腕と画材の運動に還元しようとしたサイ・トゥオンブリー。あるいは、画材の物質性を運動によって前面に押し出したジャクソン・ポロック。また例えば、心身に負った外傷、苦痛から、人間の存在が外との関係の中で不定形になっていく様を捉えようとしたジャン・フォートリエ。彼らの表現は、彼女と同じく、主体からなされる主体以外のものへの問いかけであり、その作品は、主体以外のものが語ることによって生みだされている。
しかし、このとき、問いかけを行うのは、やはり主体である。この「主体」は、基体としての自己のその反対側に、他者と対象を綱引きの相手として持つ、主観的全体性である。すなわち、主体とは関係の束であり、半分は自己、もう半分は自己の対面する世界であり、その統一されたもののことである。主体は、自らを一個の点とし、その反対側に同じく点としての他者と対象を置いて、それを関係の線で結んでいる。
彼ら(抽象表現主義、および松村)の表現において、主体は、自分以外のもの、すなわち、主観的全体の外にあるものに問いかける。それは、言うなれば「世界の外」への問いかけである。その対話者は目に見えぬものであり、その声は聞こえないものであり、手に取って確かめることの決してできないものである。それは、論理空間、あるいは意味の場の外にある。それゆえ、存在論によって指し示すことができない。それは、対象として主体の前に現れることのないもの、暗闇の中で常に身を隠しているものなのだ。
彼らは、作品制作の過程で「それ」と対話する。
サイ・トゥオンブリーにとって、「それ」は主体が他者としての身体、画材として、表現の中で出会うときに現れる。ジャクソン・ポロックにとって、「それ」は常に一つの事態、一つの事故として現れる(※2)。ジャン・フォートリエにとって、「それ」は人間の意識の外からやってくるものとしての悲劇、運命が、マチエールとして彼と向き合うときに現れる。
では、松村にとっては?
彼女が問いかける主体として対話する相手は、他ならぬ「わたし」である。それは主体、主観的全体の外にありながら、「わたし」の欲求として、表現の中に現れる。それは、「わたしは何をしたいのだろう?」という問いに答える権利を十全に持っている。この場合、「わたし」と主体はイコールではないのだ。「それ」はむしろ、主体が思い描く欲求を、不当なものとして排除する。問いに答えるのは、主体の外からの声でありながら、しかし、わたしの内側からの声なのである。
しかし、「それ」は、抑圧され、沈潜しているものとしてのそれ(es/it)ではない。「それ」は、主体から端的に無関係で自律している。
彼女の制作は、「わたしは何をしたいのだろう?」という問いに答えながら、しかし、欲求の零度を目指しているわけではない。制作を続ける彼女の手は、「それ」が終わりのないものだということを知っている。
展示されている自身の作品を見ながら、彼女はわたしに「これは抽象絵画だと思いますか?」と尋ねた。それに対し、わたしは、「違うと思います」と答えた。
抽象絵画(abstract painting)が、アブストラクト(抽象的な/理論的な/観念的な/難しい/難解な)なのは、それが視覚から抽出されたものだからだ。鑑賞者が抽象絵画を見つめながら、「これは何を描いたのか?」という問いに答えるのは、ときに難解である。なぜなら、抽象絵画は、歪められた輪郭、捨象された具象性、画家によって恣意的につけられた強弱などが、対象を日常的なその姿から引き離したものとして提示しているからだ。意味の抽象は、鑑賞者から読解の自由を奪ってしまう。
それに対し、彼女の作品には、そういった難解さは全くない。なぜなら、それは「絵筆を持ち、動きたいと思う方向にそれを動か」しただけであり、それ以上のことー例えば、美しいとか、面白いとか、斬新だ、などといったことーを感じるのは、完璧に鑑賞者の感性に委ねられているからである。
彼女の作品は、行為の芸術であり、営みの芸術である。彼女は、画家にとって、呼吸をすることと同じように当たり前のことである「絵筆を動かすこと」をただ行う。画家は、必ずしも何かを描くために絵筆を動かすわけではないのだ。
彼女の作品を鑑賞することは、海岸に座り込んで、押しては返す波をじっと見つめることに似ている。波は毎回同じように見えながら、しかし、一度として同じものはなく、その大きさも、形も、音も、その度に新しく、異なっている。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とは、『方丈記』の一節だったか。
松村の作品において、似たようなものに見える一本一本の線は、常に新しいものとして、そのたびに出会われるものとして、それを描く彼女の前に現れ、常に新しい行為として繰り返されている。反復されるその一つ一つの行為が全て別のものとして、自律してそこに刻まれているのだ。「絵筆を動かす」という彼女の行為は、反復でありながら、差異として彼女の前に現れるのである。そして、それは、いつも彼女の主体の問いかけの対話者としての「わたし」の答えなのである。
「わたしは何をしたいのだろう?」
人は、その問いに答え続け、しかし決して答え終わることはない。
鏡を見つめることもまた良いだろう。しかし、一度絶え間ない欲求を運動に還元したのであれば、もう鏡は必要ないのかもしれない。
松村の描く線と色彩は、しかし同時に、その運動の鏡となるだろう。それ故に、彼女の行為の痕跡としてのこの絵画は、微かに女性らしく華やいでいるのだろう。
※1=仮にイマヌエル・カントならば、そこに神の意志を、ミシェル・フーコーならば、そこに権力の黒い影が入り込むのを見るだろう。
※2=ポロックは交通事故によって亡くなった。彼の生涯は、その最期までアクシデントの連続によって描写されたのだ。
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