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俳句とアニミズム

「俳句の海に潜る」
文化人類学者 中沢新一さんと俳人 小澤實さんの対談本を読んだ。

「俳句の本質はアニミズムだと思う」


中沢新一さんのこの言葉は、心動かされる言葉だった。

アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。

太古の縄文時代から続く日本人の持つ自然信仰的な世界の見方。
それこそが俳句の本質だという。


俳句は必ず季語を立てないといけない。
動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術の一種のルールがある。
つまりそれは「人間の目で見るな」ということです。
人間の目で世界を見るのではなくて、人間と動植物の関係性で見ていく。
あるいは、例えば鷹を詠むときは、鷹の目になる。
動植物の目になって世界を認識することをルールにしているわけです。
中沢新一

俳句の海に潜る

世界は人間のためだけにあるのではないということを歳時記は示している
小澤實

俳句の海に潜る

そんな風に思ったことがなかった。
川柳や短歌といったより自由な形式なものに淘汰されることなく、あくまで季語を入れることに拘る古典的な手法をとる俳句が続いている意味が深いものに思えてくる。

自然と人の世界は分かれすぎているけれど、本来であれば人も自然界の一部。
それを忘れてしまっている。自分も含めて。
自然との境界線が曖昧で、輪郭が薄い状態になれたなら、自然界から奪いすぎることもないだろう。
アニミズムは人間中心の世界ではない世界の見え方を教えてくれる。


現代の日本人も無意識にアニミズム的な感覚はあると思う。
10年は前にはなるけれど、トイレの神様がヒットした。
トイレにも神様はいるんだよ。という考え方。まさしくアニミズムである。


今尚、持ってはいるものの意識をすることのなくなっている力。

このアニミズムが今、必要なのではないかと思う。


芭蕉の持つ目の凄さが、この本を通して伝わってきた。
人間の持つ生者のルール、様々な人間的な部分を薄くして、自然に対して浸透膜のように接することができないとこんな句は詠めないと芭蕉を評していた。
彼の宇宙観を知りたいと思った。


面白かったのが小澤氏が選んだアニミズム的俳句10選


この中の一つに高浜虚子の句があった。

凍蝶の 己が魂 追うて飛ぶ 高浜虚子

美しい言葉選びだと惹かれるものがあったけれど、中沢新一さん曰く、虚子の俳句はアニミズム的なようで実は近代的な思想をもとに作られているということだった。
生きている凍蝶の肉体が、別れ出てしまった魂を追っているということは、
魂と身体とを別のものと捉えているということである。

小澤さんがこの言葉を受け、いくつかの虚子の句を再検討してくれたけれど、確かに自然モチーフでアニミズム的に見えるものの、そうではないものが多かった。

一方、10選に挙げられた句でこういうものがあった。

採る茄子の手籠にきゆァと鳴きにけり 飯田蛇笏

かごに入れる時に茄子と茄子が触れ合ってきゆァと鳴いた。
なんとも茄子がいとおしく感じられる。
茄子が精霊のように感じられる。植物の中に宿っているような、一体になるような、この感覚。

この感覚なんだ。


私が中学時代授業で作った俳句の数々は、まるで本質を理解していなかったなぁと思う。
言葉の寄せ集め。簡素なコラージュのようで。

アースダイバーな芭蕉をはじめとする俳句の偉人に学び、自分もアニミズム的な俳句を作ってみたくなった。
面白いではないか!


あと、とても面白かったのが

「なぜ俳句を縦に書くか」


俳句を縦一行に書くことに神の依り代をみることができないか
と以前小澤さんは問題提起を行ったらしい。

諏訪大社の祭御柱祭の深山から切り出したもみの巨木をはるばる曳いてきて神社の境内に立てる御柱を挙げて、縦書きの俳句とそれらの依り代が似ているということだ。

縄文から続く柱や石を立てる行為。芸術行為。
そこに日本人の精神史を組み立てることができるのではないかという話にも広がった。
それは世界にも見られるかもしれないので、もっと世界の根源的な感覚かもしれない。

俳句の海は、遡れば深い、人間と地球の歴史。

天 地(あまつち) の 間 に ほ ろ と 時 雨 か な
最後が高浜虚子で締めくくられたのも、なんだか俳人高浜虚子への敬意も感じられてよかった。


自然と中沢新一さんを追いかけているようで、すっかりファンになってしまっている。
同時代を生きているって、すごいことだ。嬉しい。


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