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私たち大人は「遊ぶ」ことさえも、目的を持とうとしている

あるラジオで 普段「学び」についての発信をされている
お二人の対談があった
テーマは「大人の学びに 限界はあるか?」

そこでの言葉をお借りしながら
この対談を聴いて 受け取ったものを 
自分の言葉で 表現してみたいと思う


大人は生きることに「目的」を持ってしまう

ラジオで対談されていたお二人は こう話していた

大人になると 捉えどころのない物よりも 一般的に捉えやすい 
「目的に即している行為が 善である」
「目的に即していない行為が 悪である」といつのまにか 思わされている

・タイパ、コスパを意識するあまりに、自分が楽しい、自分がこれが好きだからという感覚で学ぶことが難しくなってきている
・お茶一杯を飲む事さえも 目的を考えてしまう

これを聴いて ハッとした・・・

「目的志向」を、つい子どもにも?

・この資格を取ったら 将来の仕事に役に立つのではないか
・今この人と繋がっていたら 後々仕事で助けてくれるかもしれない
・英語を身についておいたら グローバルに活躍できるかもしれない

そう考えることは 悪いことではない
社会人になり働くことをするならば 目的を考え それに向かって考え働く
それは 至極当然のことである

だがしかし「目的志向」に慣れすぎたあまりに
子どもと接する時でさえもにも その考えを当てはめようとしていないか?
そう思ったのだ

遊びに目的はあるのか??

大人はつい 「目的志向」になり
・砂場でのおもちゃの貸し借りで、「社会性」を学んで欲しい とか
・絵本の読み聞かせで「主人公の気持ち」を想像して欲しいとか
・ぬりえで「微細運動」を身に着けてほしいとか
・アスレチック遊びで「バランス感覚」を養って欲しいとか

まぁ大事だけど・・・
子どもからしたら しょーもないことなのかもしれない

子どもにとってみれば 目の前の遊びそのものが純粋に楽しいのであって 
「これを習得したいから この遊びをしまーす」なんてものはないのだ
ただ純粋に 目の前の遊びに集中し 楽しんでいるだけなのである
それって 実はすごいことだと思う

学習指導要領以外の学び(遊び)

元気に 不登校をしている長男は
「学習指導要領」に沿った学びからは もう1年以上離れている

彼は日頃 大好きなカードゲームをしたり YouTubeを見たり
ゲームをしたり 好きなことだけして過ごしている

大人からしたら 彼はただ単に 遊んでいるように見える
でも 息子の言葉を借りると「俺だって 学んでいるんだ!」らしい

YouTubeで 社会を知ったり 今どきのギャグを仕入れたり 
あるあるネタを仕入れたり・・・
カードゲームでの 戦い方を考えたり 
アニメを何十話も連続して観たり
遊びながらも 学んでおり 結構忙しいらしい・・・(笑)

「遊び」を「学び」に誘導しようとする大人

そうやって 気ままに過ごしている
長男の様子を見て 何かしら「学びらしいもの」に結びつけたい私がいる


どうせ読むなら 漫画よりも学習漫画を読んで欲しいとか・・・
アニメの中からでも 歴史要素のあるものを観てほしいとか・・・
英語の歌を歌っていたから 正しい発音を教えてみたりとか・・・

不思議なもので わが子たちは
そういった大人の企みを 敏感に感じ取り
「その手には乗らない」といった風に 
その場からいなくなるか その遊びをやめてしまうか・・・
最近は論破されたりもする

あぁ・・・反省!反省!反省祭り・・・(笑)

好きなことをやりなさい

そういった 大人の企みを敏感に察知する長男は
ふいに こんなことを言ったりする 

「お母さんあのねえ(ため息) 水木しげるも言ってたでしょう
``好きなことをやりなさい‘‘ って・・・」

かの有名な 水木しげる先生が そう言うんだから
お母さんが 何を言ったって 僕は好きなことをするんだから 
そう訴えかけてくる

遊びの中で「好き」を知る

日々の暮らしの中で
知らない世界に出会い 自分の手で触れる事で

好きな味を知り 好きな場所を見つけ
好きな音楽を聴き  好きな人と言葉を交わし

自分の「好き」に出会い 身体を揺らしたり 声を出して笑ったり
そうやって 自然と夢中になる遊びこそが 生きることそのもので 
それこそが「学び」なんじゃないかな

夢中になっている「遊び」を止めないで

不登校の長男がいるわが家の事情は
一般的には 特殊な例かもしれないが・・・

私が伝えたいのは 
子どもが夢中になっている「遊び」を 止めないで欲しいという事

子どもが夢中になる「遊び」には 
子どもを引き付ける なにかがあるということ
「なぜ子どもは その遊びに惹きつけられるか?」を 感じられるといい

大人が「遊びへの意味付け」をしない

「それって、将来なにか役に立つのか?」とか
「絵が得意だから、デザイン学校に通うといいよ」とか
「料理をするのが得意だから 調理師が向いているかも」とか
「一輪車が乗れるようになったから、中国雑技団に入ったらいいよ」とか…

大人が 安易な言葉を伝えた途端
「は?母ちゃん 何言ってんの? つまんないこと言うなよ…」と
子どもの遊びは 急に輝きをなくす気がするのだ

遊ぶことの意味づけを 勝手に大人がしようとしない
それだけは 忘れないでいたいなぁ と思うのでした


不登校児の母を やっていますと
「世間から外れた 考え方になってきたよな・・・」と
ふと考えることがある

それはまるで 長男と私だけが
社会から ぽつんと取り残されたような感覚 とでも言おうか

もしかしたら 世間から ほど遠い考え方に寄ってきているかもしれないが
不登校の長男と過ごす中で 感じることを ありのままに残せていけたら 
そう思うのであります ・・・

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