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僕が見た世界【ネパール エベレスト街道】No.14

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2018年11月23日

十日目(ゴラクシェプ ~ エベレストBC)

■野戦病院

部屋の隅に空いた拳大の風穴から吹き込む隙間風のヒュウウと言う音で目を覚ます。カーテンを開けて窓の外を見ると、外は明るみ始めている。風が目視で確認できるほどの渦を巻き上げ、砂を巻き上げては振り撒いて暴れていた。

ゴラクシェプの宿には一晩中トレッカー達の咳が響き渡っていた。暗闇の中そこかしこで咳が聞こえ、高所順応しきれていない旅人はゼエゼエと喘いでいる。酷い者はそれで喉をやられてしまい、喘いでは痰を吐くを繰り返した。その様子だけを切り取れば、そこはさながら野戦病院のように思えた。

無理もない。4000mを越えた辺りから、ヒマラヤは砂埃の舞う乾燥した荒野の様だった。この砂埃に乾燥したヤクの排泄物が混ざって人の体内に入れば体内に異常をきたしてしまうだろう。だからシェルパやポーターは、マスクやバンダナを口に巻くことで予防するのだ。

では「エベレスト街道を観光地化するなら、乾燥対策や諸症状に対しての医療体制など、トレッカーに対しての環境を整えるべきじゃないのか?」と言われると、そう言うわけではない。と言うより、そうすべきではないのだ。

そもそも国内登山でも自己責任で登ることが登山者の義務(少なくとも僕はそう思っている。)なのだから、それはヒマラヤにおいても同じことが言える。僕達は自然の世界に踏み込んでいるわけで、その世界は人間のためにある訳ではない。

ヒマラヤにはヒマラヤの環境があり、文化風習があり、守るべきルールがある。それはヒマラヤが変わらない限り不変で、人間の都合で変えるべきではないのだと思う。人が自然に合わせていくのであって決して自然を人に合わせようとしてはいけない。

つまり環境にあった準備をすれば良いだけなのだ。そのための対策であり、それでもどうにもならなくなった人にとってのレスキューなのだと思う。自分の能力として不安なら、現地でガイドを雇うべきだ。

まぁ、ネパールの観光事業としてエベレスト街道は目まぐるしく観光整備されているのだけど…山は観光客のために整備されるようなものでは無いのになと思わずにはいられない。

■ベースキャンプへ

早朝のクーンブ氷河は強風が吹き荒れた。こんな状況で歩けるものか。

俺は日が昇るまでは横になって休むんだと言う思いを込めて、「この風で外を歩けるのか?」とサハデに聞く。

サハデはまるで何を言っているんだと言わんばかりに肩をすくめて「オフコース」とだけ答えた。こうなれば腹を決めて出るしかないか。

風は北側から吹いているようだった。進行方向に対して正面からぶつかってくる砂嵐に、あっという間に顔が砂でザラザラになる。時折巻き上げるような強風が吹いてきた日には、後ろを向いて顔を塞がなければ全身毛穴まで砂で埋められてしまいそうだ。ハムナプトラも真っ青。

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一時間強かけてベースキャンプまで歩いていく。既に日は昇り始め、エベレスト山頂に朝日が当たり、神々しく輝いている。それが情熱的な夕日の赤とは対照的で、同じ山のはずなのに全く別の何かのように思えた。

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途中至るところにメモリアルを見つけた。メモリアルとは、山へ挑んで散っていった者達のための追悼の碑だ。立派な慰霊碑もあれば、岩の上に写真を置いただけと言う簡素なものも見られた。家族と写っている物もあったが、皆一様に幸せそうに笑っていた。それを見ると、ヒマラヤの山へ挑んだ登山家も僕達と何ら変わらない人なのだと気付かされる。

■到着

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そしてとうとう僕達はエベレストBCへ辿り着いた。アタック隊はいないため、閑散としただだ広い空き地にタルチョが岩に巻かれて積まれているだけの、何てことはない空き地だと思った。それはもしかしたら、岩にマジックで書かれた文字のせいかもしれない。恐らく観光客によって書かれた「◯◯(人名)EBC2018」の文字に、先ほどの慰霊碑とのギャップを感じずにはいられなかった。

※EBCは、Everest Base Campの略

この場所は、人によって大きく意味の異なる場所なのだ。EBCは観光客にとっての終着点である一方、世界最高峰を目指す登山家にとってはその入り口でもあるわけだ。僕もまたエベレスト街道を歩く観光客にすぎないのだが、その場所が持つ意味合いの違いに違和感を感じずにはいられなかった。

「もしかしたら僕は、エベレストに登りたいのかもしれないな」と思った。要するに、ここを終着点として求めていたわけではないのかもしれない。僕が探し求める世界はこの先にあるから、この未だ日の当たらない広場に特別な思いを抱けないのかもしれなかった。それはもしかしたら、その年に無くなった若き冒険者の影響も少なからずあるのかも知れなかった。

■栗城史多への想い

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その冒険者とは、2018年の春にエベレスト山嶺で亡くなった故・栗城史多氏のことだ。

【冒険の共有】【否定の壁】というテーマでエベレスト登頂を目指した人で、幾度もの挑戦の末、夢半ばで倒れてしまった。氏の魂は、このEBCの少し先に眠っているのだろうと思った。

実は僕が今回ここへ来たのは、少なからず氏への想いがあったことは否定できない。僕もまた、かつて氏の【冒険の共有】に心動かされた若者の一人だったからだ。

氏については、世間では賛否両論あると聞いた。それは登山家としての評価を巡るものだったと思う。そこに関して僕はとやかく言う気は一切無い。

僕が氏の活動に共感したのは、【自分の行動によって誰かを勇気づけたい】【周りが否定しようと思うままに挑戦しする】そんな姿勢に対してであり、それがたまたま登山だったと言うだけのことだと思っている。

今でこそYouTube全盛だが、当時はまだ自分の挑戦を動画配信して視聴者と共有することは珍しかった。一見すると氏は特別な才能を持つわけではなく、登山家としてのスキルも疑わしいと言われるほどだったが、その情熱は真っ直ぐに伝わったと記憶している。氏の活動が、僕の好奇心を刺激して旅に出る一歩を後押ししたと言っても過言ではなかったのだ。

だからこそ、Himalayan Timesで訃報を目にした時は言葉を失った。そしてその時になって初めて「エベレストBCまで行ってみよう」と強く思ったのだった。氏が行動によって何かを伝えようとした、世界一の山を一目見るために。それが僕がここへ来た理由のひとつだった。そういう意味では僕は目的を達成し、万感の思いを得るはずだった。

だが不思議なことに、ゴーキョ・リや、チョラパスを超えたときほどの感動はなかったように思う。そのなんとも言えない消化しきれない思いが「僕の見たい世界はこの先にあるのかもしれない」と言う、得も言われぬ衝動に駆られた理由なのかもしれない。

周りをぐるりと山に囲まれた広場から上を見上げると、真っ青な空が広がっていた。雪を被った頂は風で雪が舞っているようだった。バタバタと強風に舞うタルチョの音と、風の声を聞きながら物思いに耽る。

人間の好奇心だの、探求心だの、欲とかそう言うものは際限無いのかもしれないな。と思った。あれだけ求めた旅のゴールに、いざ辿り着くとここではないかもしれないと言い出すのだから。「じゃあその先に何があるのか」と聞かれてもわからないだろうし。きっとそれを探求するのも人生なのかもな、そんなことを考えているうちにカメラのバッテリーは切れてしまい、グローブを外した手はガチガチに冷たくなっていた。

「おめでとう」

そう言ってサハデが握手の手を差し出した。がっちりと互いの手を握る。

憧れた山と一応の旅の終着点。その時に僕が抱いていたのは、八割の達成感と二割だけ残ったモヤモヤだった。

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