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僕が見た世界【ネパール エベレスト街道】No.7

2018年11月19日

五日目(ナムチェバザール~ドーレ)

■登って下って登る一日

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「あぁ…くっそぉ。しんどいなこりゃ。」

厳しい事は分かってはいたが、実際に歩くとそのずっと何倍も辛かった。代わり映えのない森の中で、僕は石段をゆっくり登った。

今僕はドーレ(Dole,4110m)と言う集落に向けて歩いている。砂埃がひっきりなしに舞っていて、とにかく呼吸がしづらくてたまらなかった。

ナムチェバザール(Namche Bazar,3440m)からドーレまでは標高差は700mほどだから、それだけ見ればそれほど厳しいコースではない。辛いのは登り返しがあることだった。最初に700m登ってモンラ峠(4150m)を越えると、僕達はポルツェテンガ(3680m)まで急な坂を下らなければならなかった。その後休憩もそこそこにまたドーレ(4110m)まで上がらなければならない。

慣れない標高でそれだけの登り下りを繰り返すのは、まさに苦行以外の何者でもなかった。涼しい顔をして歩いているのはシェルパ位なものだった。それ以外は皆一様に辛そうな顔をしていた。下を向いて歩く僕達の横を同じように下を向いたポーターが抜き去っていった。見ると彼らは三人分かそれ以上のバックパックを担いでいた。「根本的に山の人として構造が違うんだな」と思いながら、僕は歯を食いしばって歩くことにした。腕を前に抱えるようにしてみた。そうすると力が入るように思えた。それは所詮暗示のようなものだったが、そのお陰で僕はとりあえず歩こうと言う気にはなったのだった。

■憧れの景色

もちろん辛いことばかりではなかった。

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早朝歩き始めの道はとにかく美しかったし、見晴らしの良い場所からはエベレストもアマダブラムも見渡せた。ここまでの森林地帯を抜けて、いよいよヒマラヤの荒野へ向けて歩いているのだと実感していた。目の前に広がる景色は、山を登り始めた頃から憧れた景色そのものだった。

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山に見とれながら歩いているとサハデが急に呼び止めた。見ると彼は、短い木の生えた山の斜面を指差している。

「マウンテンゴートだ。」と彼は言った。

そこには野生の山羊の群がいた。皆こちらを向いて道を行くトレッカー達を眺めていた。朝日に照らされた彼らはとても美しく神々しかった。彼らのうち一番体の大きなものが少し斜面を下り、本当にあと少しで手の届きそうな崖の所まで下りてきた。とても静かに動いたから、道を歩くことばかりに気を取られたトレッカーの多くはまだ彼の存在に気づいていなかった。それくらい静かに山羊は動いた。その様子を僕は、少し離れたところから観察していた。

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やがて山羊は動いた。少しの助走を付けて崖から飛び、トレッカー達の頭上を越えてその先の斜面へ着地した。あっという間の出来事で、気付いたときにはもう彼は随分と崖下の方へ移動してしまっていた。まるでジブリの「もののけ姫」のワンシーンを見ているかのような時間だった。改めて、ここは僕達のフィールドではないと感じた。僕達は自然の、また彼ら動物のフィールドに入れて貰っているのだ。「君達、この先は敬意を持って進みたまえよ」と言われた気がした。

※調べてみると、この山羊は'ヒマラヤタール'と呼ばれる種類なのだそうだ。ちょうどこの時期は繁殖期で、雄はライオンのような立派な白いたてがみを生やしていた。

■会話

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ドーレへ辿り着き、僕は冷たい水で洗濯をしていると昨日のスイスの彼女が歩いて来た。

「やぁ」と声をかけたが、彼女はどこかよそよそしい。あれ?昨日はあんなにフレンドリーだったのにな。勘違いだったかと気恥ずかしくなった。

彼女はしげしげと僕を見つめたかと思うと突然笑い出した。「ごめんなさい!あなたのこと、シェルパかと思ったの!」

聞くと洗濯をしている僕があまりに自然だったため、そこに住むシェルパが突然話しかけてきたと思ったらしい。とりあえず僕はヒマラヤの世界に溶け込むことが出来たんだなと、都合の良いように解釈させて貰った。思わず僕も笑ってしまった。

彼女は近くの岩に腰掛け、僕は水桶に手を突っ込みながら暫く話をした。内容は他愛のない事だったが、やはり共通の話題と言えば山のことや旅の話であった。ニュージーランドのトレイルは良かったとか、ツールドモンブランはどうだとか、スペイン巡礼のことを話した。

「いつも一人で歩いているの?」と聞くと彼女は「歩きながら友達を作るのよ」と言った。いつもそうだ。日本人にも友達がいるんだと言っていた。他愛のない話だったが、共通の趣味について語り合うのはやはり楽しかった。

こう言う会話をしていると思うのは、やはり山好きや自然愛好家は【山】で繋がっているのだと言うことだ。もっと言えば【一本の道】で繋がっていて、その道には国境など存在していない。

【旅】【山】【道】…こうした共通項を求めて国境を越えて人が集まると言うことが素晴らしいと思った。もっと色んな世界を見てみよう。出来ることなら妻も一緒に…

山の良さと言うのは【開放的である】と言う環境の中で、行動の選択肢がある程度限定されているところだと思っている。最近はWi-Fi等通信環境が整備されたり娯楽も充実して、山小屋での遊び方や過ごし方が多様化してきている。ただ僕はもっと楽しみ方は原始的で良いと思っている。基本的には静かに本を読んだり、人と話したり、散歩するだけでいい。

物が豊富にあることも【豊か】なのだろうが、豊富にあることで埋もれてしまうものもある。一方で【足りない】【不便】な事で生まれる豊かさもある。その価値観は人それぞれで、どちらが正しいと言うこともない。僕はどちらかと言えば足りないくらいで丁度良いと思ってしまう性分だ。

だから「今彼女と話している機会」はとても豊かな時間を与えられているなと思えた。暫く話した後、彼女は「じゃあまた明日」と言ってロッジに戻った。僕も靴下を絞って宿に戻ることにした。予定より随分外にいたせいで、手のひらは真っ赤にかじかんでいた。

■月夜

「今夜は月がめちゃくちゃ綺麗だぞ」

夕食後に食堂の暖炉にあたりながら「エルブルースにも登った」と言うロシア人の三人組と話していると、席を外していたそのうちの一人が外から戻ってくるなり笑顔で言った。

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言われて外に出てみると、これまでに見たことが無いほど月は明るくハッキリと輝いていた。そのせいで星はさほど見えなかったが、それを差し引いてもこれほど美しい夜はお目にかかったことがなかった。

今日歩いて来た道の向こうに、純白に輝く冠を戴いたタムセルクが鎮座していた。ジグザグ状の谷には雲が溜まり、それはまるで玉座へ続く白いカーペットのようだった。夜であるにも関わらず全てが見渡せた。見えないのは、かろうじて月の光が届かない岩陰くらいなものだった。それほどに月はヒマラヤの谷の全てを照らし出していた。真冬でもないのにグローブを二重にしてもまだ寒いと言うのは辛かったが、僕はそんなことはお構い無しにじっと岩に腰かけて無音の絶景を目に焼き付けていた。

宿に戻ると三人組は寝室に帰ろうとしていた。「おやすみ」と言って別れた後、僕はしばらく冷えた体を温めようと暖炉のそばに座り、温かいお湯を飲んだ。シェルパの少年が薪をくべてくれた。彼はロッジのオーナーの息子だった。僕が「ダンニャバード(ありがとう)」と言うと彼は照れ臭そうに笑っていた。

寝る前にダイアモックスを服用したのを見てサハデは「あまり薬に頼りすぎるなよ」と言った。あくまで体を休めて、水分を取り、ゆっくり歩くのだと。薬に頼りすぎることを彼は危惧していた。

「お腹下したら下山するからそのつもりでいてね」と釘を刺されたが、とりあえず今のところ全く問題はない。今日も疲れはしたが、一晩眠ればきっと元気になるはずだ。

読書をして、日記を書き、サハデを介して少年と話した。静かだが豊かな夜だった。

少年はやがて目をこすってアクビをした。もうそんな時間かと時計を見る。

「スバ ラットリ(おやすみなさい)」と僕が言うと、少年はニコッと笑って頷いた。

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