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「信じる」は脳の休息。

「信じる」ことは幸せだ。そんな言葉を、よく聞きませんか。
では、信じることの一体何が幸せなのでしょう。

私は、「信じる」の真価は、「疑わないでいられる」という安らぎの時間――つまり、「脳の休息」にあると思っています。

この「脳の休息」が欲しいために、人は「何かを信じたい」し、信じている状態が幸せだと感じるのではないでしょうか。

現代社会は、あらゆる選択肢と情報に溢れており、その中から「自己責任で」判断をしていくことが求められています。

とはいえ、一つ一つの判断にまともに向き合っていたら、私たちの脳はあっという間にフル稼働で、パンク状態になってしまいます。

そこで、「ある何か」を信じてしまうことで、他にある無数の選択肢を「自動的に」排除します。

そして、信じたものに付いていくことで、いちいち疑って、検証し、確かめるという膨大な思考をスキップすることができます。

これが「脳の休息」です。

信じることは、本来、とても楽なのです。

信じることで得られるメリットは、身近に数多く潜んでいます。

例えば、洋服や化粧品を買うとき。特定の芸能人がおすすめしている商品を買ったり、あるいは特定のブランドの商品を買ったりしていないでしょうか。

これは、その芸能人やブランドに対して「信頼」があるからこそ、自分の目であらゆる商品と比較検討しなくても、満足度の高い商品を得られるのです。

同様に、パソコンを買うときはアップル社のものと決めている人もいます。他にも、初デートで行く店はあのイタリアン、コーヒーを飲むのはスタバ、ミステリー小説を買うときは東野圭吾先生の著作、髪を切るときはあの美容師さん、音楽はあのグループのもの…などなど。

挙げると切りがないほど、特定のものや人を「信じる」ことを、私たちは日常的にこなしているのです。

ではもしも、信じたものに、期待を裏切られたとしたら、幸せは不幸に転じてしまうのでしょうか。答えはノーだと思います。

信じたものにもし裏切られたとしても、信じた「過去」は失われません。

合理的に言ってしまえば、裏切られたその時から、その対象を信じるのを止めればいいのです。そうすれば、信じたことによるダメージは最小限で済みます。(もし、期待を裏切られても信じることを止められないなら、それはもはや、信頼ではなく愛情の域ではないでしょうか。)

それに、信じていた過去の時間、「脳に休息を与えられた」という価値は変わらないのです。

こうして考えると、「信じる」は、信じられる側よりも、信じる側にメリットをもたらしているようです。

ですから、ストレス社会を生き抜く手段として、何かや誰かを信じてみるのは一つの手です。信じることで、脳に休息をあたえ、安らげる時間を確保していくことができます。

しかし同時に、信じることを美化しすぎてはいけないとも思うのです。

真の問題は、何かを信じられないことよりも、「信じることが楽すぎる」方にあります。

信じることは、思考を放棄することです。なので、自分にとって本当に重要な選択は、自分で一から考えて、判断しなければいけません。

信じているものさえ、一度は疑ってみる。そんな苦行が必要なときが、人生にはあるのではないでしょうか。例えば、進路・職業選択や結婚・出産、そんな人生の大切な分岐点に立つときです。

そのときは、気が済むまで疑いましょう。たとえそれが、尊敬する先輩や先生、育ててくれた親の言う事でも。常識や、固定概念であっても。

そして、「脳がそろそろ疲れたなあ…」となるくらい自分でよく考えたら、ひとまず「これ!」というものを信じて、再び脳に休息を与えてはどうでしょうか。後は、行動あるのみです。

信じるときと、信じないとき――。その線引きを心得れば、「信じる」はきっと、素晴らしいものです。

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