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今の自分を、変えなくても良いと思うよ。苦手なこともあなたの立派な個性の一つだ。

僕は今から2ヶ月ほど前に仕事で体調を崩してから休職期間に入り、これまで十分に自分を見つめ直す時間を得ることができました。

その中で気づいた一番大事なこと。
それは自分がちょっと「ズレてる」ということでした。

昔から初対面の人にさえも「なんか、変わってますね。」と言われてしまう僕だったので、僕自身「ああ、なんか僕って変わってるんやろな。」とぼんやり考えていました。

それでも生きていく上で不自由することは特になく、コミュニケーションを取るのも誰かと協力し合うのも、問題なくやってきました。

ですが、仕事を続けていき、ストレスの限界が来た時に、自分が一体どんな風に世界からズレているのかを理解しました。


僕が苦手なこと

人には必ず苦手なものがあります。
人と話すのが苦手。
時間を守るのが苦手。
段取りを組むのが苦手。

まあ、いろんな種類の「苦手」があって、これが多ければ多いほど、生活する上での「生きづらさ」が多くなっていくと思います。

そして、僕にも苦手なものがあります。
僕は、人と話したり協力すること自体は問題ない、と思っていたのですが、実は考え方の根本的な部分がズレていて、気付かない内に不和を生んでいたり自分自身がストレスを抱えていたりしました。

そもそも正直な話をすれば、同じような仕事を1日8時間も続けることが苦痛です。
ずっと同じような仕事をしていると半分くらいやった時点で飽きます。
それを世間が「社会不適合者」と呼ぶならそれでも良いですが、とにかく同じことをやり続けるのがストレスです。

そして、僕はものすごくいろんなことを深く考えてしまいがちです。
なのでこうやって自分の考えをいちいち記事に書いているのですが、そもそもあまり他の人が気にしないことまで真剣に考えてしまっているようです。
これは最近母と会話をしていて初めて気がついたことです。

「そんなに細かいことまで考えないで、みんな流れるように生きているのよ。あんた、そんなところまでいちいち考えてたら疲れるでしょ?」

母はそう言いました。

はい、その通り、疲れます。
人の気持ちだとか、自分のこれからのこととか、僕は何も考えずに流れに身を任せるのがとても苦手です。
別に流されることはできる(気がする)のですが、流されていくうちに「ん、なんか違うな。」と感じて、そこから深い思考の世界に落ちていってしまいます。

そうやって考えた結果、大した答えは見つからないので、多分考えない方が良いんだと思います(笑)
ですが、この世の全てを合理性だけで片付けられないのと同じように、「じゃあ、明日から何も考えないようにしよう!」と、自分を変えることは難しいと思います。


正論だけが正しいわけじゃない。昔彼女に言われた言葉。

自分にとっての苦手なことは、普通に考えたら、変えた方が良いです。
それが人間の成長というものだからです。

人と話すのが苦手なら、もっと頑張って話せるようになった方が良い。
人の気持ちが分からないのなら、積極的に話して理解できるようになった方が良い。

これはド正論です。

でも、人間はド正論だけでは生きていけません。

昔僕は彼女の姿勢とか性格が気に入らなくなった時がありました。
そして彼女に対して一方的に言葉で責め立てました。
「100%君が悪い」みたいな言い方をする僕に彼女は、

「正論だけが正しいわけじゃない」

と言いました。

その時僕はその言葉の意味が分からなかったけど、今なら分かるような気がします。
人間は合理性だけでは生きていけない。
その人の特性は千差万別。
だから一つの常識を、全ての人に当てはめてはいけない。

仮に今逆の立場になったとしたら、僕はその時の彼女と同じことを言うのかもしれません。


苦手なものは“かけっこ”と同じだ。

さて、僕のこの「苦手なもの」についてですが、僕が通っている心療内科の先生は、

「苦手なものというのは、人によって違う。それは、かけっこが遅いとか速いとか、それと同じような話だから、変えろって言われても無理な話。」

と言っていました。

僕はこの例えがものすごく的を射ていると思いました。
確かに小学生の頃、クラスには走りの速い子と遅い子がいました。
足の速い子は女の子にモテて、遅い子たちはチヤホヤされることなんかない。
そんな世界でした。

足が早くなるようにかけっこを頑張る子もいましたが、それですぐに足が早くなるわけもないのです。
もちろん、筋トレとか走るテクニックを学ぶことで改善は可能かもしれませんが、基本的には先天的な、その人の生まれ持った特性・体質によるところが大きい。

変えようと努力することは立派ですが、もしかすると、勉強や他のスポーツに打ち込んだ方が女の子からモテる可能性は上がるのかもしれない。

結局、苦手なことはかけっこが遅い・速いということと、それほど変わらない話なのです。

大人になった今なら、かけっこで生きていこうと決心しない限り、速くなることに時間を使うぐらいだったら他のことをしますよね。

だから、もし、人と話すのが苦手なんだったら、努力するのはアリだけど、別に変える必要はないよ、ってことです。

自分を変えることは立派かもしれませんが、無理して変えようとしても非常にストレスが溜まりますし、そもそも変えること自体無理なのかもしれません。

かけっこだって生まれつき体が弱かったり、太っているような子ならそもそも早くなるのは無理(っぽい)ですよね。

それと一緒です。

苦手なことを変える努力を否定はしませんが、わざわざ無理して変えなくていいんやで、ってことです。

苦手なことから迂回するルートはいくらでもあります。
よくそれを「弱さから逃げてるだけ」と言う声がありますが、仮にそうだとして、何か問題ありますか?

強いところで頑張ればそれで良くないですか?


もちろん、例えば、
どうしても手当たり次第に人を殴ってしまう、とか、
銀行を見るとつい強盗してしまう、みたいな特性があるなら早く変えた方が良いと思います。

それは誰かに迷惑をかける行為だし、法に触れる行為なので、カウンセリングとかを受けて改善した方が良いと思います。

そこまで行かなくても、例えば一切人と話すことができないとか、生きてく上でこの上ない不自由を生む特性であれば、改善の努力は必要かもしれません。

ですが、そういう特性ではないのだとしたら、それはその人の身長が高いか低いかみたいな、非常にシンプルな違いでしかありません。

それを治そうと努力をしても、シークレットブーツを履いてぎこちなく歩くようなものです。
なんだか窮屈でストレスフルな人生になってしまいます。

だからこそ、変える努力は程々にして、自分にとって居心地の良い場所を探すことに注力した方が良いでしょう。


時には戦うことも必要だ。

僕たちは誰かと関わり合って生きていく以上、お互いの違いにストレスを感じがちです。
会社で他の人と全然話さなければきっと上司から注意されるし、学校で周りとか変わらずに過ごしていたらいつか保護者を交えての三者面談が実施されるかもしれません。

そう、他人は他人に対して、その特性を変えようと行動してきます。

それは会社の利益のためであったり、コミュニティの中の不和を起こさないための正当な行動のように思えます。

でも、あなたの身長が低いとか高いとか、そんなこと言われても困るのと同じように、自分の特性についてとやかく言われてもどうしようもないわけです。

程度を超えると、それは他ならぬ、他人への人格否定と言えるでしょう。

そうやって非難を浴びた時、僕はこれまでいつも謝って生きてきました。
ですが、これからは「戦う」必要があると感じています。

自分の特性は、仮にそれがマイナスの特性であったとしても、大切な自分の一部です。
それを否定したり変えるために圧力をかけることは、たとえ親しい間柄であっても許されないことだと思います。

当然、戦わないほうが生きていきやすいのかもしれません。
争いもなく平和に生きた方が、面倒なこともないですし。

ですが、戦わずに隠れて生きていると、自分を抑圧する「常識」に絶えずストレスを感じることになります。

そんな世界で生きるぐらいなら、僕は戦います。


例えば仮に誰かにとって僕の特性が気に入らなかったのなら、
それはその人にとっての「常識」が僕の特性とズレていた、それだけのことです。

だからそういう時は謝ることもなく、「ああ、そっか、ちょっとズレてるんですね。なるほど、ではまた明日。」と流してしまえば良い。

それで居場所を追われるようなことがあればそれまでです。
別の場所を探すか、その行為があまりに不当なのであれば、再び戦うだけです。

僕たちの特性は決してマイナスではありません。
誰かの常識から見て「マイナス」なだけです。
つまり、他の誰か(もしくはあなた自身)から見れば「プラス」な可能性もあるのです。

それを否定された時、僕たちは戦わなければいけない。

だって、ある日急に「君は背が低いから、明日から背を高くして来い」と言われたら、それはもう立派な悪口ですよね。

苦手なこともあなたの立派な個性の一つです。
だからそれを無理に変えず、ご機嫌でいられる場所を探していきましょう。

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