見出し画像

【目印を見つけるノート】893. ア・プリオリなまなざし

きのう、道すがら、キアゲバとアゲハが舞い飛んでいました。私のことなど眼中にないようで、ニアミスの連続。ペアなのでしょう。頭上すぐにも来ました。王冠になってくれるのかな😅
「楽しそうだな」というのがまんまな感想です。

なかよし❤️いいなあ☺️

私はといえば、抗生剤を服みきって、そろそろ胃もやられて、頭痛も出てきたので、芝大神宮でいただいた生姜の茎を噛んでいるところです。ちょうどいいものを分けていただいて、ありがとうございます。腫れは引いてきましたが、もう少しかかりそうです。完全に治らないと、歯の治療にも入れませんので、長いなあとぼんやり考えています。

きのうは資料を少しプリントアウトしてきましたが、福山から封書をいただきました。ああ、次のお手紙を書かないとな。
今日は構想だけにしようか。

そのように、ちょっと足踏み感があるときにいいかも、と思い古地図を取り出しました。
自分がどの辺りに滞在していたか、ちょっと確認。
お堀を囲む侍町の一角だったようです。ご家中の三村さんのお住まい(380年ほど前)も近い😆また、妙蓮寺というお寺も側だったよう(現在は水呑ーみのみーに移転)。城域では水野勝成公が隠居後に暮らしていた一画にごく近いですね。ちなみに妙蓮寺は勝成公の母、妙舜尼のために建立されたとのこと。
お側に置いていただいて、光栄です❤️

皆さますべてが歴史がお好きというわけではないでしょうから、あれなのですが……。

2週間前のことでもあり、何百年も前のことでもあります。これは私個人の愉しみなのですが、こう、自分の見たものについて自分から離れた展開をしてみるのも悪くはありません。

自分が今、目にしているものはそれだけを見てしまいがちですし、見ているならまだしも、スルーしてしまうことが大半です。
時間を巻き戻すばかりが手段ではありません。進めてみてもいいかもしれません。時間だけでなく、人を物差しにして考えるのも楽しいですし、何ならよく飛んでいたシオカラトンボの視点になってもいい。キアゲハでももちろん😆
ときどき、そのようなことをします。

見ているものはすべて、自分の外にあります。

まなざしと伴う感覚だけをベクトルにすれば、そこに、他者と相対化する自分というのはありません。もちろん、妬みとか羨望とか、他者に抱くような感情も出てきません。ちょっとね、仏教の観想とか空の観念と似たところがあるのかもしれませんが、傍観とか一般的な観察ともぜんぜん違う感じで、自分は外にずっといるのです。いや……まなざしだけにすると言った方が適切でしょうか。

京都の清水寺さんのサイトから

観想というのはキリスト教でもいいますので、何かに偏ったものではないとも思います。

ヘルプしていただきましたが、自分の言葉足らずで表現するのなら、そのような状態です。いつもしているわけではありませんから、誤解されませんよう。

うーん🤔、歴史のお話を書くには便利だなと思います。

まあ、
道元も何も読んでいないのに偉そうすぎ。一生のうちに『正法眼蔵』をきちんと読むのが夢です(高校の頃に日本史の先生に大言壮語したのです)。
ア・プリオリ(先天的)な、自分の中にもともとある、もわもわっとした感覚のお話です。
あ、ぷりおり、カント先生もきちんと読んでないです😅
本からではないのですよね。
経験からでもない。
言葉も触媒に過ぎないというか。

この曲を思い出しました。
THE BEATLES『For no one』

THE BEATLESの曲で自分のベストテンを作るなら、5位より上だなというほど好きなのですが、「彼女の目に何も見いだせない」というフレーズが印象的でした。そして、「誰のためでもなく泣く」とはどのようなことだろうと中学生は思っていたのでした。
今も分かってはいないか😅

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽

追伸 愛はどうでしょうか。

#日記
#エッセイ
#ブログ
#アプリオリ
#哲学
#思考
#仏教
#まなざし
#ときどき
#空間
#時間
#被造物
#観想
#秋
#音楽
#THE_BEATLES
#For_No_One

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?