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ファンレター、あるいは未来を指向すること

小松左京さんのご本が小さいときからうちにあったことは今まで何度も書きました。それが今に至って私の御三家の不動のお一人になっていることも。

もともと、SFの御三家のお一人ですね。

ちょっと過ぎてしまいましたが、1月28日はお誕生日でしたし、今日は小松さんへのファンレターのようなものを書いてみたいと思います。

うちにあった『復活の日』の話をします。
ネタバレではありませんが、エピソードをいくつか出しますので、気になる方はお進みになるのをお控えください。

初めて目を通した小学生の頃はよく分かっていなかったりもしたのですが、中学生、高校生になると熱心に繰り返し読みました。本を繰り返し読んだりはしない方もいらっしゃるでしょうが、私はある種の本に限ってそうしてしまうのです。

東西冷戦の緊張がまだ緩んでいない世界。そこに謎の感染症が広がっていく、そのようなお話です。

構想されたときに、当時話題になっていた細菌戦についてのことが念頭にあったということですが、おそらく、カミュの『ペスト』も念頭にあったのではないでしょうか。
銀座の街角でネズミが頓死しているくだりは、医師リウーが見つけた兆しを思い起こさせます。
あのお話は「伝染病が広がってこうなった」というような視点では書かれていません。それが人に、社会にどのような影響を与えるのかを個人の視点を軸に描いています。
『復活の日』は個人、社会、世界がどのようにその事態に向かっていくのかということを広く描いていますね。舞台が世界ですので、及ぶ範囲は膨大です。国家、諜報機関、マスコミ、医師、研究者、世界中の市井の人々、知識人、そして南極の人々……おおかたの人はその原因も恐ろしさも知らないし、知る人もどんどん倒れていなくなっていく。その中でどう人類が生き残るかという壮大なストーリーが展開していきます。

私はひたすら感嘆していました。

「どうしてこれだけスケールの大きいことを細部まで書けるんだろう」
架空の世界でそれを書くのならば、あるいはできるかもしれませんが、ほぼ現実の世界をそこに持っていくのです(ごく近い未来の設定でしたので人名は架空ですね)。国際情勢、政治、歴史、地理、生物・地学全般、文学、いえ、人間に関わるもの全般に通暁していなければ書けませんし、ただ通暁しているだけでも書けません。
そこには凄まじいエネルギーを持つ推進力があっただろうと私は思っています。
それは、他でもすでに言われていることですが、「未来を指向する力」だったでしょう。
言ってしまえばひとことですが、未曾有の危機、困難を超えてなお、進もうとする人間の姿を小松さんは描かれていました。

小説のはじめの方であえて、ことが一端終焉を迎えた後の浦賀から東京湾の海中が描かれますが、潜水艦が上げたブイから撮影した地上の風景に主人公の吉住はひどくショックを受けます。
人や哺乳類の絶えた地上の姿です。

吉住は灼け焦がれるような懐かしさに襲われます。潜水艦から出るのを許可されて潜水しているとき、地上に上がってそこに戻りたいという気持ちになります。
でもそれはできません。まだ人間を滅ぼす原因になったものがいるからです。

その、絶望的なアフターマスを突きつけられても、吉住は海中の魚が生きているのを見て、哺乳類が生き残る可能性を考えています。

それが「未来を指向する力」のひとつだと私は思いました。
その力が感じられるのは、続いて上梓された『日本沈没』も同じだと思います。今回は言及しませんが、どちらも未来へ踏み出して締めくくられています。

翻って、
現在はフェーズが変わり続けているものの、世界のどこもたいへんな困難に見舞われています。
『復活の日』が注目されたり、『日本沈没』の現代版がドラマになっていました。ご本の内容の度合いではないですが、似たようなことが起こっていることもあるのでしょう。

確かにご本の内容はたいへん示唆に富んでいますが、「似たようなことが起こった」という事象だけではなく、人類がどう立ち向かい、未来に向かうかーーということが本当に考えるべきテーマなのだと強く思います。
とはいえ、一個人が人類のことを考えても無駄ではないかと思われるむきもあるでしょう。確かに一個人がひとりきりで目に見えるような成果を上げることはそうそうできません。
一方で、
『復活の日』では、ことが深刻になるにつれ人々が自暴自棄になり、享楽に耽り、宗教が大流行するようすも書かれています。「自分がよければいい、今日が楽しければいい、何でもいいから頼るものがほしい」という傾向がより強くなるということでしょうか。
そこは現実でもいくらかうなずける部分があります。いえ、現実はそのように分かりやすい形で表に出てこない場合もあるのではないかと思います。気になることがいくつもあります。力で圧倒したり、弱いものを傷つけたりするようなこともそうですね。
個人にも社会にもみられることです。

今は「未来を指向する力」が必要なのだと思うのです。
SDGsが提唱されていろいろ取り組まれています。同じ目的になるのでしょうが、少し噛み砕いてみれば、どんなときにも希望を見つけるとか、人どうしが協力しあって問題を解決していくという、とてもシンプルなことではないかとも思うのです。

それは、小説を読むまでもなく分かることでもあります。
医療や看護、介護に従事されている方がた、日々の暮らしに関わるインフラ維持を担っている方がた、食糧や必要な製品をその手で作られている方がたなど、「テレワークが不可能な仕事」をされている皆さんの姿がはっきり示しています。その方々がいなければ社会は維持するのが難しいことを。
ふたたびシンプルにいえば、
人は協力しあわなければ生きていけない生き物なのです。
本当にそのようなことがらを、現実の姿をくまなく見ているのだろうかと考えることはよくあります。
それが宿題であるようにも思えます。

さて、
実のところ、ここ数年は『復活の日』を読み返していません。上に書いたことも、すべて私の記憶で書いています。誤りがあったらごめんなさい。数年前にハードカバーを改めて買ったのですけれど、またじきに手に取ってみようと思います。
それは、懐古趣味や、満足や、顕示欲のためではありません。
今という時期を過ごして、見つめて、先に進むために。

この一文は亡き小松左京さんへのファンレターのようなものです。

『note創作大賞』のハッシュタグをつけておきます。
小説などではまったくないですが、今ある事象の特定の部分に拘泥することなく、未来を指向して創るという意思がとても大切だと思うからです。

私は小説で歴史を書いていますが、
歴史は過去に閉じたものでしょうか。
現在に起こして、その先につなげるものでもあるのではないかと私は考えています。
未来指向の歴史小説って矛盾していますか。

今もまた歴史になっていくのだと思いますが、これもまた市井の人間の小さなひとつの記録なのだという意識は持っていたいと思います。

拙い読者からのおたよりでした。

尾方佐羽

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