しっかり戸惑う組織開発
EVで市場の開拓者となった日産自動車は、ワールド・カフェを日本で最初に成功させた企業とも言われています。その日産自動車も、今、再び大規模リストラを敢行しています。
ガンバル”科学”は「多分…」を超えない
死刑制度の撤廃論者の拠り所は、「冤罪だったらどうするのか?」ということだそうです。これを受けて「自動車事故で死亡する人がいるからと言って、自動車を無くそうと言う人はいない(だから、死刑制度は必要)」と反論する人がいるようです。
果たして、このような議論は、論理的なのでしょうか?
「巨人、大鵬、卵焼き」と聞いて、「これは子どもの好きな物」とわかる人は、昭和世代でしょう。ここで、「巨人」と「大鵬」と「卵焼き」に、論理的なつながりは有りません。
しかし、このような多変量解析によって共通項をあぶりだす手法を、マーケティング手法として使用する際には、そこに、何らかの論理的繋がりを求めようとしているのではないでしょうか。
広義の社会学(いわゆる文系学問の多く)は、本来、現状(そのときの状態)を解明(説明)する学問でしょう。しかし、それだけでは“世間”に、「それで、何なの?」と問われてしまいます。そこで“社会科学”としての言及、すなわち、「だから、これから、こうなるだろう」を論理的に展開するようになったように見受けられます。
実際、ビジネスに直結する経営学、商学(マーケティング)、経済学などは、その典型と言えるかもしれません。
しかし社会科学は、そこに“科学”という言葉を挿入しているにもかかわらず、それは“科学”ではありません。なぜなら“科学”は、例外なく、100%の再現性を保証する論理だからです。
したがって社会科学は、自らが“科学”になりたいと思って頑張っていることを示していると言うことなのでしょう。
「多分…」を重ねるAIの描く未来
AI天気予報は、現在の雨雲の状態と、過去の実績とを照合して、降雨の確率を判定しています。したがって、「なぜ、1時間後に雨が降るのか?」と問われても、AIが論理的に説明することはありません。
このようにAIは、過去の延長線上にある将来を予測します。しかもAIは、「0か1か」という究極の二項対立を、膨大な過去を参照して行って“答え”を導き出します。さらに深層学習によって、その過去さえ創り出し、それを教師データとして利用するようにします。
したがってAI判定は、決して過去の呪縛から逃れることのない世界しか、示してくれないのです。ただ、それは、目に見えない“将来”の姿を、現に見せてくれることから、あたかも全知全能の神が、未来を指し示すかのように思えるのかもしれません。
例えばキリスト教には、「受肉」と言う言葉があります。これは、神の子であるキリストが、人間の姿で現れたことを意味するものです。すなわち、実体のないものを、実体化させたとすることで、信仰を広め、深めていったとも見て取れるでしょう。
「多分…」を重ねることは、イメージを実体とみなす錯覚(宗教化)をもたらすのかもしれません。
1人ひとりの「多分…」でイメージされる組織
翻って組織も、それ自体、実体はありません。それぞれが、そこからイメージした実体を創り上げているのです。そしてそのプロセスでは、「組織を言語化する」ということが求められることになるでしょう。
しかし、その言語化は、あくまで1人ひとりが行うことになります。それは、異なった思考、異なった文化を持つ個人から発せられるのですから、当然、異なった言葉として表わされるでしょう。
したがって、組織というまとまりは、その言語化されたイメージの集積となるはずです。そして、それは、それを思考する“今”、現出するものであり、そこには過去も未来もありません。なぜなら、個々人においては過去も未来もありますが、組織としてのまとまりは、今、認知されたのですから。
にもかかわらず、組織のビジョンやパーパスなどを検討する際には、あたかも過去(前例)があるかのように行われます。
しかも、個人の想いを反映するとは、組織イメージにグラデーションを加えることであるにもかかわらず、是か非かと言った二項対立を持ち込んだりすることさえあります。
もし組織が、AIに依存するのであれば、過去の呪縛から解放されず(したがってイノベーションは起きず)、分断は多発し(したがって多様性は発揮されず)、しかもその溝は、より一層深まっていくのではないでしょうか。
「多分…」で橋を渡る
AI的に人間の知能を捉えるなら、それは言語化された予測となるかもしれません。すなわちAIは、言語化された膨大な知識を解析することで、一定の予測をするツールということです。
しかし、人間が言語化できるものは、わずかしかありません。そもそも感情の言語化は、そう容易くはないでしょう。しかも、そこに論理的繋がりを求めるとしたら、そこに表わされるものは、人間のほんのわずかな部分に過ぎないとも言えると思われます。
にもかかわらずAIが重宝されるのは、組織運営が、言語化された範囲でしか実行されていないからであるように思われます。すなわち学問であっても、それが学問足らしめるのは、論文として(言語化されて)発表されるからです。
例えば脳科学的に見れば、言語化されていない情報も、身体的経験によって人間は獲得しています。俗にモヤモヤあるいはワクワクといった感情は、誰もが持ち得るものでしょう。
そして、そのように言語化されない情報を持っている人間で構成される組織では、それは決して無視されたり、排除されたりすべきものではないと考えます。
ただ、それらが、組織活動においては、概ね言語によって触発されることも、また、確かなことであるように思われます。そこには、知識(言語)を響かせ、新たな何かを生み出せる能力があるのだと思われます。
「多分…」という理解の下に、組織は前に進むしかないものでしょう。しかし、その曖昧さを見ずに進むことではないように思われます。
よろしければ、「憧れの管理職になれるリーダーシップ」もご覧ください。