笑わない組織開発
”笑い”という思いやり
研修を実施している時、私のクラスでは、よく笑いが起こります。ここで笑いとは、本質的に自己の優位性を自己認識する行為でしょう。そしてそれは、直接的に自己の優越性へ気づくから起こるばかりではなく、他者の劣等性へ気づくことによっても起こるのだと思います。例えば、クイズ番組を見ながら、自分にわかる問題を間違えたタレントに対する笑いが前者であるなら、熱湯風呂に入ってもがくタレントに対する笑いが後者でしょう。研修講師として造り出す笑いは、もっぱら後者であるように思われます。
研修講師が自身を蔑むことで笑いを取ろうとするのは、受講者との距離感を縮めるためです。すなわち、研修が講師からの上から目線で進行せず、受講者自らの内省を促す場となるように行われる手法だということです。同様に、戦時下において最も求められたのは、笑いだったと言われます。自身が明日をも知れない状況下にあるとき、自己の優位性を確認することは、大いなる慰めになるのでしょう。このことから、笑いを提供することは、思いやりであるとも言えそうです。つまり笑いは、自分から相手に手を差しのべることのように思われます。
自分の都合に依らない思いやり
笑いの本質は、自分に相手を思いやる余裕がなけれぱ、手を差しのべなくても良いということを、言外に了解させているように思われます。しかし、自分の都合に依らない思いやりがなければ、組織は回っていきません。かの渋沢栄一も『論語と算盤』という自著のタイトルに、その思いを込めていますし、アダム・スミスも「神の見えざる手」で有名な『国富論』を表す前に『道徳感情論』において示していることからも、そのことを伺うことができます。
そのため、自分の人生は自分の力で切り拓くものであり、それは可能であると強く思うこと、すなわち自己実現を優位に考えることは、人が独立不変の存在であるとする自己中心的な考え方と捉えられるかもしれません。とくに、「隣組」思考が古代から形成され、それが根付いていることを思えば、いつでも自分のことしか考えない自我は、失敗を他責にしたり、ちょっとした困難でも逃げたりと、寛容さを失わせていくものとして、なおさら否定的に捉えられるのでしょう。しかし、どこまでも自分が中心にあるという自我への欲求は、決して失われることはないと考えます。
笑いから合意形成へ
このような自我が人の本質であるなら、笑いを求めるのは、組織の本質であるように思われます。狂言回しのような緩衝材として組織に存在することで、自我と自我の衝突を回避させるからです。しかし組織は、衝突の回避ばかりではなく、それを合意にまで高めなければ機能しません。
そこで、自我の欲求に従いつつも思いやりを示すもっとも原始的な合意形成として、暴力による支配が成されます。例えば、「殴られたくなければ、従え」は、殴らないという思いやりを含んだ言葉として、殴ろうとする者は自己弁護するでしょう。
暴力に基づかない民主的な方法として、人はディベートという手法を編み出しました。ディベートは、一見、公平なようにも見えますが、所詮、勝ち負けであることに変わりはありません。換言すれば、肉体的暴力か、言葉に依る暴力かの違いとさえ言えるかもしれません。
そこで、次なる手段として妥協が生まれてきます。いわゆるバーターです。しかし、互いが結果に十分な満足を得られなかったり(痛み分けに終わったり)、政治的な駆け引き(利己的な利害の獲得競争)に陥ったりします。
このことから、現状の合意形成の多くは、相手の言い分に耳を貸さない一方的な命令となるか、一解釈の押し付けに過ぎない結果しか得ていないように思われます。すなわち、誰の行動原則が普遍的な行動規範なるのかを争っているに過ぎないと言えるのではないでしょうか。
「経営に正解はない」と言われるように、本質的な普遍性の存在もまた、仮定できないでしょう。それを仮定した思考は、ある意味、固定観念(一方的な解釈)に過ぎないように思われます。
固定観念を超えるチャンクアップ
そこで、これらの固定観念を超えるためには、互いが合意できる点まで問題をチャンクアップさせ、そこから共にチャンクダウンさせ、新たな着地点を見出だすことだと思われます。すなわち、相手における根本原因を理解するまでチャンクアップを繰り返すことが、自分の都合に依らない思いやりを実現する第1歩ではないかと考えます。
しかし、このような手法には、窮屈な感じ(まどろっこしさ)があるかもしれません。だから、もっと便利な手法はないのかと考えるかもしれません。しかし、便利さに、心地良さはあるのでしょうか。
合理的に表現すれば、不便とは満足度がマイナス領域にあることと言えます。しかし便利さは、決して満足度がプラス領域にあることではありません。それは、ただ、プラス・マイナスゼロの点にあるに過ぎないのです。
満足度がプラス領域にあるとは、「心地良い」という、合理や便利とは全く違う尺度が充てられるものです。例えば、人は心地良さを求めて行動します。そして、楽にそれを得られることを便利と表現します。このことからも、心地良さと便利さが別物であることが理解されるでしょう。
ここで、お金があれば楽に心地良さを得られることから、お金さえあればと思い、お金のないことを嘆き、お金の無いことが根本原因である…? これは、論点をすり替えた錯覚に過ぎないでしょう。なぜなら、そもそもの心地良さが何なのかを、全く議論していないからです。
根本原因を理解するためのチャンクアップでは、このような論点のすり替えを起こさないことが肝要でしょう。そして、論点のすり替えが、往々にして固定観念から生まれることを理解しておくことが求められると思います。
互いの感情に素直になるために
岡本太郎は、「縄文土器に近代的なメカニズムの悪循環、その負い目を乗り越えていく生命力」を見たそうです。ここでいう近代的なメカニズムとは、おそらく合理性でしょう。つまり、合理に縛られた生活からの脱却へ向けられたエネルギーを、縄文土器に見たのではないでしょうか。逆説的ですが、人は太古の昔から、合理に抗うことで進歩を手に入れてきたように思われます。すなわち、無条件に合理を受け入れてこなかったプロセスこそが、進歩の源であるように思われます。例えば17世紀の産業革命以来、機械(今ならAI)の進歩とともに便利さを手にしてきましたが、便利さを手に入れるたびに、その危険性を指摘する思想が起こっています。そして、その思想が、次の飛躍への足掛かりになってきました。
人の脳では、前頭葉の表面部分が損得勘定を司り、前頭葉の深部が思いやりの心などを司り、そして双方は同時に(関連的に)働くことがないそうです。だからこそ合意形成では、意識的に、互いの感情に素直になることを求め、互いが満足を得られる第3極を求めることが必要になるのだと思います。そして、おそらく、それが今、最も現実的な合意形成の次の段階であるのではないでしょうか。
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