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ストレスは「予測」が外れたときに発生する説

会社員時代からフリーランスの今にいたるまで、始終ヘラヘラしている。
ヘラヘラすることを心掛けている。
怒ったり不機嫌でいても、何の得にもないからである。

怒りというのは一種の自傷行為でもあって、血圧は上昇するし、むやみにハラハラする。健康上、良いことはない。

怒っている態度や姿勢は、それが見せかけであるなら、有用な場合もある。
ローマの哲学者であるセネカの言葉を引く。
(ぼくはストア派哲学の考え方を信奉している)

怒りを認めるようなことは、いっさいあってはならない。時には、聞いている者のだらけた心を刺激するため、見せかける必要はあろう。なかなか立ち上がらず、走ろうとしない馬を、突き棒と燃え木を押し当てて駆り立てるのと同じである。道理が役に立たない者に、恐怖を打ち当ててやることも、時には必要だ。それでも、怒ることは、悲しむことや怖れることに劣らず無益である。

セネカ「怒りについて」

人が怒るのは、要するにストレスを感じるからだ。
ストレス反応が起きて、不快なので解消しようとする。

あくまで実感だけれど、ストレスが生まれるのは「予測」が外れた、なのだと思う。予測ができていれば、ストレス反応は少なく抑えられる。

では、怒りやすい人の頭の中ではどのようなことが起こっているのか。
図解とともに説を述べたい。
正しいかどうかは知らない。あくまで実感にもとづく分析である。


怒りやすい人の頭の中の感覚

怒りやすいひとは「べき論」が強い。正義感が強いひとはよく怒る。
言い換えると自分の中の「理想」と「予測」の領域が同じ、または近い。

上記の図の赤い線より外に自分または他人が逸脱したとき、脳内でストレスホルモンが分泌される。

他人に過度に期待している、ともいえる。
自分が敷いたレールの範疇にいてくれることを期待している。

ただ、「わたしの怒りのボーダーラインはここまでですよ」なんて他人には見えない。わからんのである。

可視化、明文化はできないし、もしできても、他人は理解してくれないし、配慮もしてくれない。その点も過度に期待しない方がいい。

ここを認識していないひとは厄介で、トラブルメーカーになりがち。


予測の枠はつねに広く持つこと

では、怒りやすいひとは自分をどう扱えばいいのか?

まず、「理想」の領域を手放すことはないと思う。

あくまで理想は守りつつも「こうあるべき」ではなく、自分も他人も「この理想の領域にいてくれたらラッキー」くらいに考えているといい。

そして理想とは別に「予測」の範囲、枠を広く持つ。

理想の枠から外れても「こういうこともある」「そういうひともいる」と、理想と予測のあいだに二層目をつくる。

そして、自他ともに「予測」を外したときにだけ、反応すればいい。
こう考えたほうが精神衛生上、ダメージが少なくて健康的である。


アンガーマネジメントという概念もあるので、こういう図は、もしかしたら二番煎じかもしれない。

すくなくとも、ぼくは見たことが無かったので、カンタンに作成してみた。

すぐ怒る人、感情に振り回される人は、ぜひ予測の枠を広く持ってほしい。
とくに組織の中では、ヘラヘラしている方が人間関係も円滑になるし、情報も入ってくる。

もし自分の周囲に怒りっぽい人がいて、その人を変えられない場合は(他人を変えられることは無い)、その人の理想と予測のラインを見極めてみるといいと思う。

「あの人のボーダーラインはこのあたりだろう」「だから、こう攻略しよう」と対人関係でも戦略を練られる。

そうした事前予測をすることで、自分のストレス反応の抑制にも繋がる。

さいごにふたたびセネカの言葉を引用し、それっぽく記事を締めくくる。
怒りやすい「君」に対して、二千年前のセネカはこう諭している。

むしろ、君は短い人生を大事にして、自分自身と他の人々のために穏やかなものにしたらどうだ。むしろ、生きているあいだは自分を皆から愛される者に、立ち去る時には惜しまれる者にしたらどうか。なぜ君は、あの高所から君をあしらう者を引き下ろそうと欲するのか。なぜ君は、あの君に吠えかかる男を、卑しく惨めだが、上の者に辛辣でうるさい奴を自分の力でへこませてやろうとするのか。なぜ奴隷に、なぜ主人に、なぜ王に、なぜ自分の子分に怒るのか。少し待つがいい。ほら、死がやって来て、君たちを等し並にするだろう。

セネカ「怒りについて」


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