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長峰柊磨を演じた松村北斗氏に伝えたいこと

先週末のTwitterのTLは見ていて、なかなかの気分の悪さだった。
Twitterの検索窓に「SixTONES」と入力すると、候補として後ろに続くワードは「下手」「批判」。

おいおい、なんだこれ?
リアルタイムに状況をキャッチしていなかった私はよくわからなかった。

全貌を把握してから思った。この感じ、既視感ある。
ちょっと前の月曜日22:00~火曜日12:00くらいまでの光景と同じだ。
一つだけ、違ったことは北斗が反応しているようなサインがちらついたことだ。某ドラマの時には、様々な言葉が飛び交っていること、絶対彼にも届いていたはずのに、反応はなかった。(「ナンバMG5、評判いいよねー!」とコンサートで話していた時はちょっと胸が痛んだけど)ドラマの最終話の後も、自分のお芝居について、現場での熱量については言及していたけれど、作品や自分が演じた長峰柊磨については多くを語らず、表面だけサラッと触れた感じがした。きっと誰よりも、長峰柊磨という人物について、考えて、考えて、考え抜いて。自分にとって愛情深い存在となった役について、視聴者とファンと分かち合いたいものがあったかもしれないのに。
北斗は自分が何を思っていても、見た人の評価や判断を“結果”として捉えていると日頃感じることが多い。特にネガティブな声については。

ならば。私が長峰柊磨という人物と約10時間共にして感じたこと、『恋なんて、本気でやってどうするの?』で思ったことを全部ここに記そうじゃないか。巷では「全肯定ファンなんて、ファンじゃない」とか「全肯定はキモイ」とか言われているけど、全肯定か否かは置いておいて、推すということ、ファンであるということは、良い時も悪い時も、そばにいて、見守り続けることだと思っている。何があっても、目を離さないこと、だって人生を共にするって、共にしたいって思ったから推しているわけであって。そんな無責任な、中途半端な気持ちで好きなわけじゃないからって、思うのである。


『恋マジ』のストーリー

『恋なんて、本気でやってどうするの?』、通称『恋マジ』の評判は正直あまり良くなかったと思う。恋愛すべきだ、結婚すべきだ、という価値観が根底にあり、そのうえ女性としての恋愛経験の有無に囚われている登場人物たちの価値観にも反発があったのではないかと感じている。恋愛が全てではないし、性的な経験は必ずしも必要ではない、決してそれが人として、女性としての価値を決めるものではない、という意見もよく目にしたような気がする。そして、そうあるべきではない、という意見もよくわかる。

だが、現実は意外にもあのドラマの世界に近いと私は思っている。30歳も近くなると、結婚していない、恋人のいない人(特に女性)に対して、冷ややかな目が向けられることがある。というか案外多い。結婚していなくて、恋人もいなければ、まるで人間的に難あり、という見られ方をされることが、ある一定発生する。そして恋人がいない人間よりも、恋人はいないけど、肉体関係を持つ相手がいたり、不倫やパパ活をしている女性の方が“オンナ”としての価値が高いように見られることもある。残念ながら、“選ばれているか否か”、“性的な魅力があるか否か”で見られることは令和のこの時代でもまだまだあることだと私は感じている。
それはきっと、女性の若さに大きな価値を見出している価値観がまだあるから。そして悲しいことにその若さの価値が落ちることを実感するのが、ちょうど純たちの年齢だったりするような気がする。(ちなみに私は今年28歳になる)社会に出て、経験を積んで、スキルもキャリアも磨いて、人としては価値が高くなっているはずなのに、それに反比例して女性としての価値は試されるようになる。そんなことより大切なことがあるはずなのに。

このドラマの10話を通して、物語の根底に流れていたのは“人々の自律”だったのではないかと思っている。“自律”と一言で言っても、その自律には複数の意味がある。経済的なもの、精神的なもの、家族や人間関係、何かへの依存、自分の価値観、そのすべてに自分で決めたルールや意志を貫いて生きていくこと。このあたりが込められていたのではないだろうか。

純は仕事も順調で、一人で生きていくことを想定し、老後に向けてマンションを購入しているくらい経済的には自律している女性だ。その一方で誰かと真剣に本気で向き合った経験が乏しく、相手が自分と異なる感情や考え方を持つことを知らない。自分の正義を振りかざしてしまい、相手を想って言ったことが結果として相手を傷つけてしまっていることに気付きながらも、そこに向き合う勇気が持てない。恋愛なんて時間の無駄、自分の人生にはいらない、と言い放っている。誰からも真正面から必要とされた経験がなかったのかもしれない。第三者の視点で自分を俯瞰することができず、人間関係構築においては自律していない。恋愛においても、好きという気持ちがありながらも、「推し」という言葉で自分の気持ちを誤魔化して、傷付くことから逃げていたし、自分自身の感情と向き合うことからも逃げている様子が窺えた。
響子は安定を求めて、初彼氏と結婚し、主婦となった。おそらく23歳頃に。少し早めの結婚であるような気もするが、安定を求めていた響子にとっては結婚という選択がベストだったのだと思う。響子は自分の価値観や考え、意志をしっかりと持っており、その点では自律しているように見える。だが、本当は自分でやりたいと思えるものがなく、消極的な選択として結婚を選んだのではないだろうか。そして経済的には夫に依存しているからか、夫に対して強く出ることができず、諦めていた。
アリサはパパ活という“コスパの良いお付き合い”で、誰かに選ばれることを感じながら、自分を保っている。アリサが試着室で高級な服を着て、写真を撮り、SNSにUPしていたり、彼氏とデートしている風の写真をUPして、自分を良く見せようと、特別な人間に見せようとする姿が印象的だった。流れるままに生きているような感じだった。
要は過去に起こしてしまった自分の過ちに苦しみながら生きている。自分が犯した罪を後悔し、自分の存在を隠して隠して、必要最低限の営みだけで生きている。悪人ではなく、人が良い部分があるが故に追い込まれて一線を越えてしまった。特別なスキルを持っているのにも関わらず、罪悪感を抱え続け、自分の未来について考えることもなく、自分の価値について考えようともしない、人々の影となっているような印象を受けた。
克巳は人間関係が原因で大手保険会社を退職し、コンビニでバイトをしている。この事実に対して、普通であれば、失敗してしまったという感情や、自分はこんなはずじゃないと思う感情があっても不思議ではないのに、彼にはそんな素振りが全くない。誰かが決める自分の存在意義なんて目もくれず、自分の中にある確固たる価値基準を軸に生きている。自分が満足できていれば、他者の目なんて気にせず生きていける人だったように思う。揺れ動くキャラクターの中で、彼だけは確固たるものを持っていた印象だった。
そして最後は純と柊磨の母親二人である。純の母親は純の父親に捨てられ、経済的にも苦しい中で、誰かに縋って生きていくしかなかったのだと思う。純は男に振り回されている母親という認識を持っていたようだが、単に恋愛をしていただけではないと思う。自分が生きていくために、自分の子どもを育てていくために、自分を愛してくれる人が経済的にも精神的にも必要だったのではないだろうか。柊磨の母親の真弓は言わずもがな。父親に捨てられ、ギャンブルに依存し、自分の子どもである柊磨の育児も放棄してしまう。酒に溺れ、ギャンブルに溺れ、柊磨に都合よく依存する。柊磨を大切にしたいと思いつつも、正しく大切にする力を持ち合わせていないが故に、大切にする方法を間違えてしまっている。
二人どもドラマの中では「毒親」と称されていたが、彼女たちも決して毒親になりたくてなっているわけではないのだ。

このドラマを通して、描かれてるものを見ると、現代を生きる人々は皆、不安を感じながら生きているという現実だと思う。大人の心理的な安心安全が得られにくい社会の中で、親になって、子どもを育てることそのものの難易度が高い。ましてや女性の場合は離婚した場合に一人で子どもを育てるパターンが多く、子どもを育てながら、十分な稼ぎを得ることが難しいということも社会問題になっている。人間関係や経済的な理由で揺らぐ大人の不安定さが改善されなければ、うまくいかないことはたくさんある。皆、自分が生きることで精いっぱい、本気で恋愛なんてしている場合ではない。パワハラ、貧困、ストレスに苦しむ大人の存在が社会問題として存在する今、こんな話はどこにでもあるリアルだと思う。

こうして視点を変えて、『恋マジ』を見返すと、一気に見え方が変わる。単なる恋愛ドラマではなくなるのだ。このドラマにおける恋愛はあくまで誰かと1対1で正面から向き合い、相手を理解しようとお互いに歩み寄る人間関係の一つの例に過ぎなかったのではなかったのではないかと思う。


長峰柊磨の存在

そんな物語の中で、生きづらさを感じながらも成長し、大きな変化を遂げたキャラクターが長峰柊磨だった。柊磨はポーカーフェイスで、自分の心がありながらも、それを悟られないように生きている。それでも時折見せるふとした表情に寂しさや切なさといった人間らしい感情を感じざるを得ないのだ。柊磨は父親に捨てられ、一度自殺未遂をし、その後ギャンブルにのめり込んでいく母親に育児放棄をされたにも関わらず、「自分は母親が死なないように見張っていなきゃいけないからそばにいる」と12歳の頃から母親の面倒を見ていた。彼は昨今耳にするようになったヤングケアラ―とも言えるだろう。別の家庭を持つ父親が早くに出ていき、ギャンブルにのめり込んでいく母親と二人残された柊磨。自分がしっかりしなければ、立ち行かない家庭環境で育った末に、柊磨は自然と他者に期待しなくなったのだろう。「人って同じ場所にずっとはいないんだなぁって思った。どんなに優しくても。」と話す柊磨はすべてを悟ったようだった。
人の優しさや愛なんてものは信じられない、という気持ちを持っていながら、真弓のように自分を頼ってくる女性は受け入れて、ケアをするということに潜在的に慣れている。結果として女性を拒むことなく、あらゆる女性と関係を持つことになってしまったのだろう。不特定多数の女性と流されるまま、求められるがままに関係を持ち、誰かと深い関係になることを嫌がっているように見えたが、第一話でひな子と一晩過ごした後、彼女を見送る切ない表情を見れば、刹那主義である一面を上手く利用されて、都合の良い男として、消費されていることを柊磨自身がわかっているようだった。端から深い関係を求めてこない楽さもある一方で、自分を知ろうともしてくれない、大切にしてもくれないそんな相手に虚しさを感じていたに違いない。そんな柊磨の前に現れたのが純だった。自分のことを自分の親以上に、自分以上に、当たり前のように大切にしてくれる純という存在に出会った。それによって、これまで保ってきた自分のペースやバランスが崩れることは避けられなかった。でもそれ以上に柊磨が温度のある人間になっていく様子が手に取るように伝わってきた。自分を大切にできる人間に一歩近づいたのだ。自分の意志を伝えてもいい、自分のやりたいことを優先してもいい、それでもそばにいてくれる存在を得たから。自分を二の次、三の次で考えていた無機質な柊磨に人の体温が宿っていく様が見事だった。

気も遣えて素敵な言葉をサラッと使うことができる。ネットにいろんな言葉が溢れていることも影響しているのかなと思いますが、そんな紋切り型の言葉を目にすると、どこか心がないような……文字をなぞっているだけに感じることがあります。彼はそういう人に近いのかなと感じました。「刹那主義」という言葉もそうですが、いろんなことを瞬間的に、その場しのぎで捉えているから、恥じらいや戸惑いがない。いろんなことを1つひとつ本心で感じないようにしてしまっているのかな?と思うところがあったので、その辺は意識しました。
『BARFOUT! バァフアウト! 』2022年5月号
決して人が嫌いなわけではないんですよね。僕が思うのは、自分が傷付くのが怖いから、相手への期待や深読みを彼は捨てたんじゃないかな?と。それってすごく現代的だと感じます。
『BARFOUT! バァフアウト!』2022年5月号
彼の言動にはある種の機械じみたところがあるのかなって。ちょっと心を感じないんだけど、どこか信じたくなるようなつかみどころのなさが難しかったですね。ただ、そうした行動に悪意は決してなくて、やがてどういうことなのかが見えてくる。ドラマも、みんな結局、悩みや不安を抱えていることを映し出しているんですよね。“こういう人いるよね”と、人を知ったり、わかってあげられたりするきっかけになる気がする
『25ans (ヴァンサンカン)』2022年5月号増刊

松村北斗が考え、演じた長峰柊磨の人となりは視聴者である私たちにちゃんと伝わっている。それがどれほどすごいことか。それだけで十分である。
確かにあの長峰柊磨という役は、松村北斗の演技があって成り立ったものかもしれない。突然スッと冷めて真っ黒になる瞳や、かと思えば熱量たっぷりに涙を浮かべて訴える目をしていたり、決して言葉にではできないような複雑で微妙な感情に揺れ動く表情、感情に突き動かされて堪えきれずに誰かを求める表情など、柊磨は主役の純以上に様々な表情を見せてくれた。演じる役について考え抜き、一つ一つの表現にこだわり、何よりも繊細さを持つ松村北斗だから、演じることができたのだと思う。


松村北斗さんへ

ストーリーに対して、ああでもない、こうでもないという意見があるのはある一定仕方のないことだと思う。どんな作品にだって、ある。ましては昨今『逃げるは恥だが役に立つ』や『恋はつづくよどこまでも』などのファンタジー的ラブコメの人気が高い風潮がある中で、社会問題まで反映し、ここまでリアルを切り取った恋愛ドラマは珍しかったと思う。浅野妙子さんの描く世界はそんな容易いものではない。でも結果的に松村北斗の繊細な演技が際立った作品になったと私は思っている。「朝ドラという出世作のあとに、こんな作品に出演するなんて」というまったくもって理解できない声もあったが、朝ドラで光った松村北斗の、朝ドラではお見せできなかった、奥深く繊細で多彩な演技を皆さんにお見せすることができたと思う。

お芝居の作品に出る時に大切なことは一つ一つの作品の良さを吟味することではないと私は思う。お芝居は経験を積んで、ナンボだし、共演者の方々との化学反応をたくさん経験することがお芝居の幅を広げる。打席に立つことがとても大切なこと。作品の良さを吟味した結果、誰かと一つのものを作り上げることの経験を失うのは代償として大きすぎると思う。そもそも毎回良い作品に出られる俳優なんて、世界中探したっていない。北斗が尊敬する二宮和也さんだって、私が大好きな中村倫也さんだって、作品自体には賛否両論ありながらも、きっとその作品を作る仲間たちをリスペクトしながら、全力でお芝居をして、お芝居で結果を残している。

大切なのは誰かの目に留まること、そして打率。
一つ一つの作品に、役に、全力で向き合い、最高のお芝居をすることで、必ずそれは誰かの目に留まる。それはプロデューサーかもしれないし、脚本家かもしれないし、監督かもしれない。そしてそこから良い作品にコンスタントに呼ばれるようになれば、俳優としては十分なことだと思う。そして北斗は今、間違いなくその道を歩いていると思う。

視聴者やファンの声は大切だけど、視聴者やファンはあなたにお芝居の仕事は残念ながら与えられない。キャスティング権はない。
私は北斗のいろんなお芝居をまだまだたくさん観たいから、だから、北斗には自分にチャンスをくれる人の心を掴むようなお芝居を頑張ってくれたら嬉しいなと思うのです。そうすれば、必然的に視聴者もファンもついてくると思うよってね。

そしてファンには自分たちのSNSでの発言が、社会的に見て、推しの評価を下げていることに気付いていただきたいなと思っております。「数字は取れるけど、扱いづらい」なんて思われた日には終わり。自分の推したちの活動の場を作り出すことはすごく難しいけど、こういうことの積み重ねで守ることはできると個人的には思います。

自分のことを「面倒くさい」「どんなに褒めていただいても、気持ちに逆張りをしてしまって、絶対に自分で下げちゃう」と語る北斗が、自分の強みとして、

そんなところを面白がってくれる人が、なぜかいてくれることですね。強みは僕自身にはなくて、ファンの方たちや興味を持ってくださる方たち。そういう人たちがいなくなったら、僕の存在意義はなくなります
『25ans (ヴァンサンカン)』2022年5月号増刊

と話していた。決してそんなことはないのに、それなのにこう言ってくれる推しにいつだって誇れる自分で在りたい。誇れるファンで在りたいと思う所存です。

松村北斗さん、どうか蝉の声に振り回されないでください。
あなたはあなたのままでいてほしいし、私はそんなあなたを尊敬しているし、これからのあなたの成長をずっと近くで見守り続けていたいのです。
それが私の幸せだと、改めて思うのでした。




おけい

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