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Biohistory〜人間に潜む生命の歴史〜

   日常生活の中で、自分がヒトという一つの生物種に過ぎないことを意識することがどれほどあるだろうか?言い方を変えれば、自分が猫や昆虫、クラゲと同じ生物というカテゴリーに属することを意識する機会はどれだけあるかという問いになる。つまり、ヒトを数多の生物の中で相対化して捉えられるかということである。恐らく、ヒトは人間という特別な動物であるという偏見を大なり小なり無意識に抱いていることと思う。

 こんな言い方をしてしまうと、自分は違うと反論される方もいらっしゃるだろう。では、そのような方に問いたい。例えば、道路で怪我をして動けない鳥と道路に飛び出した人間を同時に見付け、どちらも車に轢かれそうな状態にあったとする。そして、片方しか助けられない状況にあったとしたとき、一体どちらを助けるだろうか。人間を助ければ鳥が死ぬし、鳥を助ければ人間が死ぬ。そんな選択を迫られれば、咄嗟に人間の方を助けようとしないだろうか。なぜなら、鳥の命よりも人間の命の方が大事(鳥好きな方には申し訳ありません)だと判断してしまうからだ。その判断を僅かな時間にしてしまった時点で、傷付いた鳥よりもわざと道路に飛び出したかもしれない人間の方が大事だ、つまり鳥よりも人間の方が優位な存在だと認めてしまうことになる。

 有名なトロッコ問題にも似て随分と意地悪な例え話をした気もするが、このような究極的な選択を迫られれば人間の方を助けてしまいそうな気がしないだろうか。仮に、その人間が自殺を図ってわざと道路に飛び出したというのが真相だったとしてもだ。この行為の根底には命の価値付けが存在しており、無意識に鳥の命より人間の命を価値あるものと判断していることになる。

 これらのことから、やはり人間は生物の中でも特別な動物であるかのように思われていると言えるのではないだろうか。とは言え、このことを非難する気は毛頭ない。なぜなら、人間が人間を贔屓目に見てしまうのは当然のことであるし、他の生物にはない複雑な社会の構築や技術開発など一線を画した特徴から優位性を感じてしまうのも仕方ないからである。

 しかし、このような偏見が進み過ぎると見落としてしまう部分もある。それは、人間が生物としてのヒトを土台にして生きており、またヒトの部分が長い生命の歴史の上に偶然生まれたものであるということである。つまり、生物という集団において、本来ヒトは特別な存在でも何でもなく、他の下等と言われるような生物種と同等な地位しか有していない。なぜなら、ヒトもクラゲもネギも、黄色ブドウ球菌も究極的な共通祖先から系統発生(生物進化)の過程で分岐してきたのだから。そして、長い地球の歴史が地層という形で地球に刻まれるように、生命の歴史もまた我々人間の体に確かに刻まれている。従って、ヒトは人間という特性からヒトを特別なものと思いがちであるが、そのヒトの体はそれ以前の生物種の試行錯誤の結果生まれたものなのである。

 以上のことを踏まえ、本記事では主にヒトゲノムと人間特有の脳機能を論題にして、人間の中にも確かに存在する生命誌の記録を見ていきたい。今回も最後までお付き合いいただけると幸いである。

1、ヒトゲノムに残る生命の歴史

 今では遺伝子の本体がDNAという化学物質であることも一般常識のようになっているが、遺伝子の実態が明らかにされたのはつい100年ほど前の話である。遺伝子の本体が分かり、DNAシーケンス(塩基配列を決定するプロセス)の技術が確立された1970年代になると、ヒトのDNA塩基配列を調べようという気運が高まった。これが所謂ヒトゲノム計画と呼ばれるものであり、1990年代になってヒトゲノム計画も加速した。そして、2004年に塩基配列の解析が終了したと宣言され(注 1 )、ヒトゲノムの塩基配列を明らかにすることができた。

 しかし、ヒトゲノム計画の終了とともにそれ以前の予想が幾つか覆されることになる。先ず、ヒトは他の生物種と比較して塩基数、遺伝子数ともに大きいと考えられていたが、それが覆されることになる。例えば、遺伝子数に着目すれば、ヒトが約30000であるのに対し、ゼブラフィッシュは32000とヒトの遺伝子数を超えている。また、シロイヌナズナという植物では遺伝子数が29000であり、余りヒトと変わりないことが分かる(文献 2 )。きっとヒトの遺伝子数は非常に多いだろうと思われていたため、この結果は大きな驚きを与えた。次に、塩基配列に関してもヒトは他の動物と異なる部分が多いと考えられていたが、この想像もあっけなく裏切られることになる。ヒトとチンパンジーの塩基配列の98 % が一致すると言われたりするが、実際ヒトとチンパンジーでは塩基配列に大きな差がないことが分かっている(文献 3 )。勿論、言語遺伝子と呼ばれる FOXP2遺伝子の差のように、僅かな塩基配列の違いがヒトとチンパンジーを決定的に分ていると考えられる場合もある(文献 4 )。しかし、塩基配列の大きな差が形質の大きな違いを生むという考え方も多かったことから、たった2~3 % の違いしかないという発見は非常に大きな衝撃を与えたと言えるだろう。

 このように、ヒトゲノム計画はヒトが決して特別な存在ではないということを明らかにした。特別遺伝子数が多いわけでもなければ、特別変わった塩基配列を持つわけでもない。勿論、塩基配列の僅かな違いは莫迦にならないかもしれないが、裏を返せばヒトは僅かな塩基配列の差が生じたことで偶然ヒトになり得たと表現することも可能なのである。つまり、ヒトとチンパンジーの共通祖先で、突然変異により僅かな塩基配列の差が生まれ、それによってヒトはヒトとしての道を歩むことになったと言える。ヒトは特別な遺伝子を数多く生み出すことでヒトになったのではなく、一寸した遺伝子の違いを生み出すことでヒトになったわけである。

 ヒトとチンパンジーという類縁の関係に限ってきたが、もっと幅広いスケールで見ても面白いことが分かる。以前の進化発生生物学の記事で紹介したように、Hoxクラスターという遺伝子群はヒトからショウジョウバエまで幅広く保存された遺伝子である(文献 5 )。また、Pax-6という眼の形成に関わる遺伝子もヒトからハエまでよく保存されている遺伝子であることが知られている。このことから、HoxクラスターやPax-6は遥か以前から形態形成に不可欠な遺伝子として獲得され、ヒトにおいても欠くことのできない重要な役割を果たしていることが分かるわけである。このような遺伝子は哺乳類の間でも見られ、マウスからヒトまで全く同一の塩基配列を持つ極保存配列(Ultra conserved element)が481個も見付かっている(文献 6 )。この配列の機能は未だ完全に明らかになっていないが、どうも脳の発生に関与しているらしいという報告(文献 7 )がある。この報告の真偽は除外したとして、哺乳類間で高度に保存されていることから、この配列は純化選択(変異のある個体は進化の過程で排除されるような自然選択)の影響を受けている可能性があり、これもまたヒトを含む哺乳類において欠くことのできない遺伝子であることが分かる

 以上のような、ゲノム科学の成果により次のようなことが言える。ヒトをヒトたらしめている遺伝子の多くは長い生命の歴史の中で古くから存在しているものであり、ヒト固有の遺伝子はチンパンジーとの共通祖先で起こった一寸した塩基配列の変化に由来するものに過ぎないと(注 2 )。つまり、ゲノムは我々人間の体を構成する設計図であるとともに、その設計図には我々の共通祖先が試行錯誤の跡が色濃く残っているものであるということである。このような視点に立つと、ヒトゲノムは壮大な系統発生の過程を記した歴史書のようなものであると考えることができ、何ともロマンチックなものに思えてこないだろうか。自分という存在を確立するためには、原始の原核生物から続く生命の歴史の裏打ちが必要なのである。

2、脳機能の進化

 ヒトをヒトたらしめている最も大きなものは何か。こう問われたら、頭を指差しここだとと答えることだろう。そう、脳である。人間活動を象徴する複雑な社会活動も、技術の開発も脳の働きによって可能となっている。しかし、人間活動を支えるこの脳は、何もヒトになって生まれたものでもない。脳という器官は魚類の時点で既に認められるし、脳機能を包括する神経系というシステムは刺胞動物にもある。つまり、脳という人間活動を支える器官もまた系統発生の中でより高度な情報処理を行うために生まれてきたものでしかないのである

 人間の脳を調べてみると、幾つかの領域に分けることができる。大きく分けると、人間らしい活動を生み出す大脳、内分泌や呼吸を司る脳幹、運動を調節する小脳に分類することができる。勿論、もっと細かく分けることもでき、脊髄から順に延髄、橋、小脳、中脳、間脳、大脳といった具合に分けることもできる(注 3 )。何れにせよ、脳は細かく幾つかの領域に分けることができ、階層構造をなしていると言える。

 では、このようなヒトの脳の階層性を系統発生の中でどのように捉えられるのだろうか。このことを説明する前に、人間の脳が個体発生の過程でどのように生じるのかを確認しておこう。脊椎動物の神経系の発生は、外胚葉から神経管という器官が分化するところから始まる(文献 8 )。この神経管の一部が更に分化し、前脳胞、中脳胞、菱脳胞の3つの領域に分かれる。次に、前脳胞が終脳胞と間脳胞へと分化し、菱脳胞は後脳胞と髄脳胞へと分化する。そして、最後に終脳が大脳へ、後脳が橋と小脳へ、髄脳が延髄と脊髄へ分化する。このことを踏まえた上で、脊椎動物の脳の進化を見てみると、非常に面白いことが分かる。終脳、間脳、中脳、後脳、延髄という脳構造は既に魚類で確立されており、両生類以後は容積の小さい終脳が大脳という名前に相応しい脳容積へとなって行く流れであることが分かる。つまり、個体発生における終脳から大脳への分化を進めるかのように、系統発生が起こっていると捉えることが可能なのである。ヘッケルは個体発生は系統発生を繰り返すという反復説を唱えている(文献 9 )が、脊椎動物の脳進化と哺乳類の脳の発生はまさに反復説に従うかのような様相を呈している。

 脊椎動物の系統発生において大脳の容積増加が大きく関わっていることを踏まえ、大脳の階層構造を見てみよう。大脳は大脳皮質と大脳辺縁系、大脳基底核の3つの領域に分けられるが、大脳皮質と大脳辺縁系は脊椎動物の脳の進化と密接な関係がある。大脳皮質は大脳新皮質とも呼ばれ、哺乳類で大きくなった領域である。この領域は人間でいう理性的な判断や複雑な感情を司る部分であり、脊椎動物において最も遅く出現した領域である。一方、大脳辺縁系は帯状回や扁桃体、海馬といった聞き覚えのあるであろう部位が存在する領域であり、大きく原皮質と古皮質に分類される。大脳辺縁系は人間でいう本能行動を司っていることが知られているが、この領域を系統発生の視点で捉えると面白い。先述した通り既に魚類で終脳という大脳相当の領域が獲得されていたが、原皮質や古皮質といった領域はまさに魚類から始まる脊椎動物の系統発生によって獲得されてきたものである。古皮質は魚類から存在する領域であり、原皮質は爬虫類によって獲得された領域である。つまり、最初の脊椎動物である魚類からある古皮質に爬虫類で獲得された原皮質を重ね、更に哺乳類で大きく発達した新皮質を重ねることで大脳という構造が出来上がるわけである

 このように考えてみると、人間の活動を司る脳という器官が何も特別なものでないことが分かる。脳という器官そのものは既に魚類からあり、しかもその構造は我々のものとほとんど変わらない。違いと言えば、魚類では大脳相当の領域が人間と比較して小さいことである。しかし、その大きな大脳に関しても古皮質に原皮質、新皮質と層を重ねて行ったという系統発生の過程で獲得したものに過ぎない。つまり、人間の脳もまた脊椎動物の系統発生の歴史に裏打ちされたものなのである

 このような脳という器官を神経系というより包括的な概念で捉えると、話は更に壮大になる。神経系の獲得は刺胞動物から既に始まっており、刺胞動物における神経系の仕組みは何と我々の体にも残っていると考えられている。ヒトの腸には中枢神経系と独立して働ける神経系が張り巡らされているが、その神経系は何と刺胞動物の散在神経系が原型になっているのではないかという考えもある(文献 10 )。一方で、刺胞動物の散在神経系から集中神経系が生まれ、その集中神経系の仕組みが我々の神経系を作っているのである。こう考えてみると、人間を人間たらしめる脳という器官、そしてそれらを包括する神経系というシステムもまた、最初の動物が獲得したものを系統発生の過程で上手く発展させて行ったに過ぎないことが分かるわけである。普段はクラゲを莫迦にする人も、クラゲを莫迦にできるのはクラゲとヒトの共通祖先が神経系というシステムを獲得したからであることを一度意識してみては如何だろうか。

3、生命の歴史

 ヒトゲノムと脳機能の進化という観点から、我々ヒトが如何に生命の歴史(生命誌)の上に成り立っている生物であるかがお分かりいただけたと思う。普段は人間以外の動物をどこか下等だという偏見があるかもしれないが、その下等だと思う生き物たちが紡いできた歴史の上に我々人間が存在できるのである。虫を筆頭とした生き物がなぜこの世の中にいるのか分からないという人がいるという話を聞いたことがあるが、そのような人にこそこのことを知ってほしいと思う。虫も人も同じ生物なのであり、そこには上も下もない。あるのは、ただ虫や人といった生物が系統発生の流れで誕生したという事実である。そして、その系統発生の歴史はゲノムに確かに残っているのである。

 人間は他の生物と一線を画した存在であるかのような偏見を捨てることは難しいが、人間の中に隠れた生命誌を紐解くことでせめて他の生物に対して尊厳を以て接したいものである。確かに人間は固有の発展を遂げたが、それは長い生命の歴史の中で偶然生まれたヒトという部分を土台にしてのことである。ヒトという部分に目を向ければ、生命誕生からの歴史にも目が向くようになる筈であり、人間が優れているといった偏見も少なくなるのではないかと思う。

 近年は、社会や技術といったものを批判する論調も少なくない。このことに対しての言及は避けるが、社会や技術といった人間由来のものを考えるとき、もっと根本に潜むヒトとしての部分にも目を向ける必要があるのではないかというのが私の考えである。皆さんが何を思うかを想像しつつ、筆を置くことにする。

4、参考文献

(1)巌佐庸, 倉谷滋, 斎藤成也, 塚谷裕一(2013). 岩波 生物学辞典 第5版, ”ヒトゲノム計画”. 岩波書店.

(2)Alberts, Jhonson, Lewis, Morgan, Raff, Roberts, Walter(2014). Molecular biology of the cell 6th edition(中村桂子, 松原健一 監訳(2017). 細胞の分子生物学 第6版. 29, Newton Press.) 

(3)Wen-Hsiung Li, Matthew A. Saunders(2005). The chimpanzee and us. Nature 437, 50-51.

(4)Enard W. et al(2002). Nature 418, 869–872.

(5)橘井秋霜(2022; 2022/5/21閲覧). Evolutionary Developmental Biology〜発生と進化の出会い〜.

(6)斎藤成也(2007). ゲノム進化学入門. 150, 共立出版.

(7)Amy Maxmen(2018). ‘Dark matter’ DNA influences brain development. Nature news.
https://www.nature.com/articles/d41586-018-00920-x

(8)Alberts, Jhonson, Lewis, Morgan, Raff, Roberts, Walter(2014). Molecular biology of the cell 6th edition(中村桂子, 松原健一 監訳(2017). 細胞の分子生物学 第6版. 1199, Newton Press.) 

(9)B. I. Balinsky(1965). An Introduction To Embryology 2nd edition(林雄次郎 訳(1969). 発生学. 岩波書店.)

(10)山下桂司(2011). ヒドラ. 岩波書店.


注釈

(注 1 )実際に解析が終了したのはユークロマチンと呼ばれる遺伝子発現が行われる領域に関してであり、繰り返し配列が多く遺伝子発現が抑制されているヘテロクロマチンの塩基配列は解析されていない(文献 1)。

(注 2 )勿論、長い系統発生の歴史を辿れば、問題はこれほど単純化できない。或る遺伝子の重複や、重複した遺伝子の変異による新たな遺伝子の獲得や偽遺伝子化などを考えなければならない。しかし、議論が複雑化することから、本記事では詳細には立ち入らない。興味がある方は、参考文献6などを参照していただきたい。

(注 3 )哺乳類では、大脳も更に幾つかの部分に分類される。大脳皮質、大脳辺縁系、大脳基底核の3つの領域に分けることができる。また、機能に着目して運動野、感覚野、ブローカー野と分類することもある。後述するが、大脳皮質と大脳辺縁系は脊椎動物内の進化を考えるに当たって本記事で重要な概念となる。

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