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2018/9/16の日記~寄生虫、平成の夏の切れ端、September~

夏の帰省中、夏風邪を引いてしまってどこにも行けなかった。
 背中から滴り、床に染みていく汗を不快に感じつつ、「最後なんだから」と期待され、揶揄され、消費されていく平成の夏の切れ端を過ごした。まったくこの国の人間は「最後」と枕詞がつけばなんでも食べちゃうのだなと達観していた。

 湿気を重く纏った風はシャツの内側を泳ぐ能力もないのか、アブラゼミの鳴き声に糾弾され、夏の容赦ない日差しを前に潔く蒸発していくしかないみたいだった。やっぱり夏風はどこにも連れて行ってくれないのだなと僕の心の内なる総理大臣は大変遺憾のようだった。

 そんな折に、こんな悲劇である。台風に地震だ。地球の端っこに嵐を起こし、地を揺らし、文明の利器である電気を奪い、完全に間違った火の使用方法で家々を焼いた災害だ。
 日本列島を横断ツアーしていく巨大なエネルギーを蓄えた台風は、僕らの日常を、文字通り根こそぎ奪っていくようだった。朝、キャンパスを覗いてみると巨木がいくつも倒され、その複雑な基盤を暴露されていた。台風がしょっちゅう飛来していた地域の出身なだけあって、不謹慎な胸騒ぎも感じつつ、未だまるで他人事のようにどこかエンタメ的な気持ちがあったのは認めざるを得ない。そんな暴力的なまでに傲慢な気持ちを打ち砕いたのは、今まで感じたことのない揺れだった。視界を大きく揺らし、自分が狂ってしまったのかと錯覚してしまうほどの大きな揺れだった(北海道胆振東部地震)。

 7年と半年前に、テレビの向こうで起きた未曾有の大災害が頭を過った。ところが、あの時よりも圧倒的なリアルさと、頭をバットでフルスイングされたかのような完全な悪意を伴っている。やっぱり自分は、荒療治的に体験しないことには想像力も育まれないのかと嘆きさえした(7年と半年前のあれは想像力が及ぶ範疇の出来事ではないかもしれない。どちらにせよ、テレビの向こう側の出来事だった。僕の心は少なからず傷ついたが)。矮小な人間性を揶揄するかのように、電気は止まり、コンビニの商品棚には値札も付かない空間だけが無言で陳列されていた。なんてこった、と無意味過ぎるほど無意味な言葉を口にするしかなかった。

 ところが、人々はいつも通りの日常へ回帰したいという熱情を持ち、互いを思いやっていた。温かな人間性が熱情と思いやりを巻き起こす。しかし、一方で、パッションと思いやりと対を成す、猥雑な残虐性もあった。地震被害の当事者とそれ以外の傍観者との間の論争と行動に、パッションと残虐性の対立が色濃く出ているのを見て、理屈抜きで温かな人間性の立場でいようと思わせた。問答無用で、である。そのためにいくつかの行動も起こした。

 個人的な立場から言ったって、こんな台風も地震も大雨も、現実世界に深く傷をつけてしまえばエンタメになるわけがない。日常生活にエンタメは確かに必要だけれど、それさえも嵐に巻き上げて揉みくちゃの台無しにしてしまうのが災害なのだ。訴訟モノだぜこんなの。いくつかの楽しみがおじゃんになっちまったじゃねぇか。誰もわるかないんだけど。

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 というわけで、多くの人の30年間の平成の夏の切れ端には、もしかしたら汚い言葉が殴り書きされてしまったかもしれない。どうか「最後」という言葉に特別な響きを感じているならば、平成最後の秋も冬も存分に楽しんでいただけたらと思う。9月も半ばを超えた。その切れ端に書ききれないほどの嬉しい言葉が躍り並ぶのを楽しみにしている。年の瀬の12月にEarth, Wind & FireのSeptemberでも流して大団円を迎えられたらいいなと期待している。床に寄生虫のように伏してなんかないで、街へ出かけながらそういうエンドロールが流れることを心底期待している。

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