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何もかもみんな爆破したいと炎上するのか

最近の若者は盗んだバイクで走りに行ったりしない。私の世代から既にそう言われて続けてきただけに、いまさら「炎上」なんて虚構新聞かと思った。

記事を読んでみると炎上した訳ではなさそうだけど「どうして○○は許されるのに、昭和J-POPだとダメなのか?」という疑問が思い浮かぶので、対比しながら仮説を導いてみた。

メタルの暴力性は創作エンタメ

最も極端な例としてメタルが挙げられる。Megadethは大量虐殺だし、CANNIBAL CORPSEは人肉食嗜好だし、CARCASSは内蔵大爆発である。

SLAYERのトム・アラヤさんが言う「信仰と創作は別と割り切っている」話は納得感がある。悪魔主義を歌っても、本人は熱心なカトリック信徒で、ホラー映画のような創作という位置づけでSLAYERをやっている。

反例として、北欧のブラックメタルバンドの中には犯罪(教会放火、メンバー殺害など)に手を染めた事例がある。メタルが暴力行動を引き起こした訳ではなく、もともとそういう素質のある人がたまたまメタルで表現した因果関係だと捉えている。

もう少し軽いところで、レッチリのドラッグなど現実と創作が絡み合った問題もある。アンソニーの自伝を読むと、音楽よりもドラッグについて描写したページの方が多い。この辺りは次の節でも触れたい。

大衆指向は批判にさらされやすい

元記事に挙げられるJ-POPは、おそらくSLAYERと同じ「創作としての暴力性」だろう。尾崎豊がバイクを盗む訳ではないし、藤井フミヤが触るものみな傷つける訳ではないし、浜田省吾が何もかも爆破する訳ではない。ではなぜ、より過激なメタルでは問題にならないのに、J-POPでは問題になるのか。私の考察は以下の通り。

  • 出る杭は打たれやすい

  • 意図せず暴力的コンテンツに触れるのが問題

  • 大衆の信用を基盤にした人気は脆い

1. 出る杭は打たれやすい

実はメタルも80年代は「出る杭」として教育団体からバッシングされていた。その当時の若者を熱狂させていて、得体が知れないため年配者から退けられた。今やメタル愛好者の年齢層も上がって落ち着き、そもそも炎上の対象として挙がるほどの影響力もないのかもしれない。

他方の昭和J-POPには、未だ「出る杭」と言える程の影響力があるのだろうか。もしあるとすれば、昨今はみんなの趣向が多様化するので分散しやすいのに対して、昭和J-POPにはミリオンヒットが多く「みんなが知っている」という強みがある。

2. 意図せず暴力的コンテンツに触れるのが問題

暴力的だったとしても、メタルはメタル愛好家だけが日影で楽しむので、興味ない人は関わらなくて済む分離ができている。

J-POPは大衆向けなだけに、身構えていない人にも届いてしまうので、暴力的であることが批判されやすい。

3. 大衆の信用を基盤にした人気は脆い

J-POPのアーティストが薬物騒動で自粛する度に、なぜレッチリのドラッグは問題視されないのだろうと疑問だった。私なりの答えは、誰もレッチリに対して清楚であることを期待していないからというもの。

アイドルが偶像を意味するように、J-POPのアーティストは多かれ少なかれ皆の偶像という側面がある。清楚であるという信頼を基盤に人気を集めているため、信頼を裏切ると人気に影響するという脆さがある。

メタルに対して「なんて暴力的だ!」と批判するなんて、お姉さんに「今日もお美しい!」と言うくらい日常的なことなので、記事にすらならないだろう。たとえ批判されても、万人に好かれることを目指していないので商売に影響はない。

昨今の有名人でも、オンラインサロンを母体にしている芸能人は、テレビから干されることを恐れないだろう。時代は変わり、場を変えることで表現の自由が確保されることを期待している。

エンタメは時が過ぎて芸術へと変わるだろう

時代にそぐわない暴力的コンテンツで言えば、聖書、ギリシア神話、古事記ともに登場人物がめっちゃ惨殺されるので、たいへん暴力的である。余談ながら、聖書の中では悪魔より神の方がキル数が多い。

紫式部が描く光源氏はロリコン兼マザコンで誰とでも寝る変態野郎だし。三島由紀夫は登場人物も青空オナニーしたり、女体に金閣寺を見出したりして変態度が高い。こんなのが教科書に載っていていいのか心配にすらなる。

文学や芸術だと許されるのに、どうしてJ-POPだとダメなんだろうか。単に拒否反応を示した人に教養がなかっただけかもしれないけれど、私の仮説は以下の通り。

  • 共感でしか善し悪しを測れない功罪

  • 現実に近づくほど、空想と現実を混同してしまう

  • 時間の試練を生き抜いたものに権威を感じる

4. 共感でしか善し悪しを測れない功罪

映画や小説に対する賞賛の言葉として「共感した」が持ち出されることは多い。記事の中でも昭和J-POPは「共感できない」と批判されている。

確かに、共感によってダイレクトに伝わるけれど、共感だけで一元的に測るのは勿体ないと私は考える。他の人の作品に触れる意義として、自分と違った人生の追体験が挙げられる。それなのに、共感できるかで測っては理解の範疇を超えた作品を締め出してしまい広がりがない。

分かり合えない前提で何とか想像を試みることで多様性が受容できる。それを可能にさせるのが教養だから、教養と呼ばれる作品には多少の過激な表現が許容されているのではなかろうか。

5. 現実に近づくほど、空想と現実を混同しやすい

「今から一緒に殴りに行こうか」は暴力的だという批判があるのに、三国志で敵将の首を打ち落とすのが暴力的だという批判は聞いたことがない。エメラルドソードサーガで暗黒王を倒すクサメタルが暴力的かと言われると、現実と違い過ぎて判断できない。

時間や場所が離れた暴力性には寛容なのに、現実と近い設定や描写になるほど混同してしまう傾向はあるだろう。

昭和は年号にして2世代前で人々の価値観も変わってしまったけれど、J-POPな体裁をとっているという共通点だけで令和も地続きだと錯覚してしまうのかもしれない。もう少し時間が経って歴史上の年号になれば、昭和J-POPは当時の人々の価値観を紐解く資料として別の評価がなされるだろう。

余談ながら、「そんな暴力的なゲームばかりやってたら、空想と現実の区別が付かなくなる」と心配する人がいる。私から言わせると、その指摘をする人の方が現実と区別できていない。将棋の棋士に対して、戦争を煽動するんじゃないかと心配してるようなもの。でも、描画がリアルに近付くほど混同してしまうのも理解はできる。

6. 時間の試練を生き抜いたものに権威を感じる

ビートルズや教科書に載ったり、ボブディランがノーベル文学賞を獲ったりすると、権威ある文学作品だって元は俗的だと批判されるエンタメだったんだろうと想像できる。

雑誌の袋とじは卑猥だけど美術館の裸婦は芸術と呼ばれるのも不思議には思っていた。以下の記事はたいへん参考になった。表現の自由はエロい絵を見てシコるために追及されたという主題。美術作品だって元を辿ればシコ絵なのかと感銘を受けた。

めちゃシコなエロ絵でさえも、時間の試練を生き抜くと芸術としての権威を帯びる。個人的な見解ながら、グラビアであろうと芸術であろうとおっぱいは尊い。

意識高い系の親御さんにおかれましては「メタルじゃなくてクラシックを聴きなさい!」と言うかもしれないけれど、サティの「干からびた胎児」なんてデスメタルの邦題かと思う。本当に好きな人は、権威ではなくそのものの面白さを知っていて、エンタメと地続きに芸術を嗜んでおられる。

自戒を込めたまとめ

不快だと感じる人に意図せず暴力的なコンテンツが届くのは避けたい一方で、安直な自主規制によって表現の自由が脅かされることには危機感を感じている。大衆向けとは違ったパラダイムで、自由な表現ができる場ができるといいなぁ。

例え自分が共感できる範疇を超えても、そういう世界もあるんだと想像し、自分の価値観を相対化した上で位置づけ、学びを得られるくらいの教養は身に付けたい。また、権威があるから凄いんだろうという大衆の評価で思考停止せず、作品が持つエグさを直に味わえる感受性を持っていたい。

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