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12月4日 シミったれた文章への不快感。

出来事の大小は然程問題ではない、というか出来事が小さければ小さい程私は生き生きとした文章を書く訳だが、noteには私と同じくこの手の文章を得意としている人が多く、文字の一つ一つに日常を見逃さない、感性が豊かである「私」が見え透いていて萎える。そういう気分の時の私が書いた日記にも同じようなことが言える。大きな出来事も日常の一つであることを忘れてはならないのだけれども、それを取り扱える程の、その重さに耐えながら更にそれを屈強なものとする、頑丈な言葉を私は持っていないのかもしれない。赤子が誰にも負けないのは彼、彼女らが圧倒的に弱い存在だからであり、時に周囲の様子を見渡すようにしながら、おんぎゃあおんぎゃあと泣く姿を見ると、実に理性的でイヤな生き物だなと思うことがある。その証拠に彼、彼女らは目的を達成した途端に泣き止んだりする。これらの行為が許されているのは、奴等が言葉を持っていないからである。歳を重ねれば重ねる程泣かなくなるのはそのためだ。「おんぎゃあ」よりも具体的で相手により深く突き刺さる手段を見つけたに過ぎない。
いい歳こいた成人である私は小さな出来事、日常的に起こる事象に対し、あれがこうでどれがそうではなく、よってウンヌンカンヌンなのだ!とツラツラ饒舌に話す訳だが、人が死んだりすると、おんぎゃあ、おんぎゃあ、なのである。人が死んだことを書く、ということに対してハードルを感じるのはおかしな話である。日常的に人は死ぬ。自分自身がみたことを、当然のように書かなくてはならない。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。