見出し画像

SNS社会と向き合う中でZ世代が感じたこと

____Scene1

SNSはあくまでその人のごく一部を切り取ったものでしかなく虚構の世界であるのに、いつしか固執してしまっていて飲み込まれていく様は滑稽だなあと。蜘蛛の巣にかかる何かにはなれても糸を作り出す蜘蛛にはなれないしなりたくないし。早く抜け出さなきゃと。無理なのは分かっているけど。

SNSがここまで繁栄しなければ見た目やその世界の常識や価値観に固執してさらにコンプレックスを抱く必要もなかったのにと思うけれど、それ以上に恩恵を受けてしまっているのでもう離れられないし上手く活用していくしかないよなあと。

自己評価が低い人ほど他者からの評価に一喜一憂してしまうから依存しやすい。
その一方で、どんなに承認欲求を満たし他者からの評価を得たとしても、自分が自身に課した評価基準に満たない限り一生満足できない矛盾。
あの人がどうとか人にどう思われるかも多少は気になるけれど、きっと自分を一番理解していて自分に一番期待しているのは他でもなく自分で、むしろそんな自分自身を納得させてみることが現代のSNSの醍醐味なのかもしれない。

こんな風に日々あれこれ考えを巡らせている訳だが、決して偉そうに語っているつもりも自分を大きく見せている訳でもない。自分に自信がないからこそ自ら付加価値を見出しコンテンツとして提供することで魅力的な女性であるかのように見せているのだ。これは一種のブランディングだ。

そう、ブランディング。
これはSNSに取り憑かれた私が辿り着いた現状打破の考え方。
等身大の自分を発信していくことも楽しみの一つだが、いいねやフォロワーの数を気にし過ぎてしまう人はいつしかその数字が自分自身への評価だと錯覚してしまうことがある。
けれど冒頭に触れたようにあくまで日常の一部を切り取ったもの、もしくは非日常を発信していくコンテンツなのである。今やSNSも立派なエンタメの時代なのだ。
踊らされるのではなく自ら踊るように楽しみ活用していきたい。



____Scene2

SNSや今自分の手元にあるスマートフォンはあくまで自己表現や他人との繋がりを果たすツールであり、使い方を誤るととんでもない武器になる。
これはツールが悪いのではなく使う人のリテラシーの問題である。
現実でナイフがあるからといって人は刺さないだろう。

これは完全に自論なのだが、ある程度語学や異国の文化について学んできた人は人権問題や性問題然り、自分とは違う価値観に対する咀嚼が早いように感じる。
「私はこうだけど、貴方はそうなのね」という基本スタンスなのだろう。日常や交友関係自体が日々異文化交流なのだ。
対照的に語学や異文化理解に苦手意識を持つ人は排他的な思考を持つ人が多いように感じる。

何をどう学ぶかの選択は自由であること前提で、飲み込みはできずとも知識を得たり理解をする程度の努力は必要だと思う。
無知は時に暴力になり得るので、誰かを傷つけない、周り回って自分が損をしたり傷ついたりしないよう自分の身を守るためにも最低限の学は必要ではないのか。
大人になっても、むしろ大人になってからこそ日々勉強だなと感じる。

また、ネットアンチなどを行う人々の傾向を見ていると、自分とは違う考えを持つ人に対しての批判だけでなく、発信者の意図を汲み取ったり行間を読むことが苦手な故、曲解して自分の価値観を否定されていると捉えている人が多く見受けられる。また、論点をすり替え会話が成立していなかったり。
心無い投稿や的を射ていない主張を見るたびに私は、人間性が優れている=頭がいいとは決して思わないが、道徳と同じくらい義務教育レベルの国語力は生きていく上で最低限備えておくべき学だと感じている。

幼い頃読書が大事だと口酸っぱく言われてきた理由も社会に出ると一層理解できる。

余談だが、その人自身の感性や知性、品性は紡ぐ言葉に現れると思っている。
自分の考えや感情を適切に伝えるためにはそれに近しい適切な語彙を知っている必要があり、また同じ事象を体験し同じ感情を憶えたとしても、数ある言葉からどのような言葉を選択するかはその人自身に委ねられているからである。



話が少々脱線したが、無知は知なりという言葉があるように、常に傲慢であるべからず。それでいて卑下するのではなくどんな時も謙虚でありたい。自責はするけど他責はしない。謝罪より感謝を伝える人でありたい。素直に貪欲に。
こうしてSNSから学ぶことはたくさんある。
これからも日々勉強だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?