否定されて喜ぶ人は世界中のどこにもいない。
子供の頃、大人(親や先生)が子供を否定する場面に出くわすと、「なんで大人はわからないんだろう」と思っていた。
幸い、我が親は甚だ呑気な放任、親自身が自己肯定感たっぷりな人で自分の子供に限らず人を否定することなんてなかったし、素敵な先生との出合いにも恵まれた。
もちろん、否定してくる先生もあったけれど、そういう先生の否定は大概、意識的にも無意識的にも、先生の価値観の押し付けや、大人が子供を管理しやすいように矯正しようとする考えによって生まれているものなので、そういう先生はうまくスルーしていた。
相手のことを本当に考えていたら、否定の言葉は出てこないと思う。
否定は主に自分起点で始まる。
「こうあるべきだ」という意識・無意識の「べき論」が自分起点にあって、それとのギャップから出てくる否定が多い。
経営やコンサルの現場でよく使われる言葉に「あるべき姿」というのがある。この言葉が嫌いで私は使わない。
「べき」というのは価値観の押し付けにも思えるし、コンサルタントが「こうすべきだ」と一方的に決めつけられるような単純な時代でもないし、何より自分が言われる立場だったら嫌だと思うからだ。
「あるべき姿」は他人(先生、第三者)が決めるものではないと思っている。
カウンセラー兼コーチ兼コンサルタントのような仕事をしている身としては、相手の方が言語化できていない「ありたい姿」や「望んでいるイメージ」を言語化し、その実現までお手伝いするのが自分の仕事だと思っている。
目標を見い出せない、目標を立てたけれどイメージが曖昧で前に進めない状態にある個人や企業の方々をご支援することがここのところ続いている。
もちろん否定の言葉は一切使わない。
否定の言葉を使わないのはサラリーマン時代に後輩の育成をしていたころと変わらない。
キャリアや起業に悩む女性と対話をしていると、これまでの人生のどこかで誰かに否定されたことにより、自分の潜在力ややりたいこと、想い、感情に蓋をしてしまった人とよく出会う。
多くの場合、否定されたことや否定されたきっかけは忘れられている。
人間は嫌なことや辛いこと、納得できないことでも遭遇した事態には無意識にも適応しようとするし、真面目な人ほど「自分が悪い」「自分が間違っている」のだと思って、否定してきた相手に合わせてしまう。
それで済んでそのまま適応して人生を進んでいける人もあるのだけれど、長い人生どこかでやはり誤魔化してきた自分の気持ちがモヤモヤとなり、沸々と湧いてきたり、転職や起業など何かを始めようとしたときにそのことが障害となってしまったりすることもある。
嫌な辛い経験を思い出す必要はなく、否定を肯定に変えられればそれでよいと思う。その人が否定された当時と今とでは、その人自身も環境も世の中の常識とやらも大きく変わっている。
何よりその人がその人らしく、自分を肯定でき、自分の納得した人生を歩んでいければよいわけだから。
これは企業も同じだと思う。
企業は人が集う集団、分解していけば個人に行きつくし、人と同じようにアイデンティティが求められる。今のような不透明な時代は尚更だ。環境に適応するにしても「適応の仕方」というものがある。
強みは弱みの裏返し。その逆もまたしかり。
人も企業も多種多様。時代によって能力を発揮する場所、発揮される能力自体も変わってくる。
捉え方を変え、それぞれの持ち味が肯定され、活かされることが大切だと思う。
否定からは何も生まれない。
個人や組織の「見えないチカラを見えるカタチに(潜在力を顕在化)」することを私は活動の理念としている。
「見えないチカラを見えるカタチに」するのに否定は不要だ。
否定が意欲や自信を削ぐ元になってしまうことは子供の頃から見てよくわかっている。
歩く好奇心。ビジネス、起業、キャリアのコンサルタントが綴る雑感と臍曲がり視点の異論。