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言葉に責任を持つということ|社会への想い【哲学】

「自分の発言には責任を持つべきだ。」

そう思ってわたしはこれまでの人生を生きてきました。
でも最近よく考えることがあります。

いったいどこまで自ら発する言葉に責任を持つべきなんだろう(´-`).。oO

先日、メンタリストのDaiGoさんの差別発言の炎上が話題になりました。ほとぼりが冷めるにはもうしばらくかかりそうですね。。

言うまでもありませんが、一般人のわたしとDaiGoさんでは発言力に圧倒的な差があります。力のある人ほど社会に与える影響は大きいだろうし、影響力と責任の度合いはきっと比例するんだろうな〜なんて思ったりもします。

でもDaiGoさんもわたしたちと同じひとりの人間なんですよね。

女性蔑視の発言をした森元首相だってそうだし、ヘイトメッセージを放ったDHCの会長だってそう。

軽率な発言だとは言っても、それぞれの価値観で導き出したひとつの意見に過ぎません。

そもそも人は過ちを犯す生き物であって、影響力があろうがなかろうが間違いは誰にだってあるものだと思います。

とは言え、発言撤回をしたところで与えた影響を取り返すことはできないだろうし、責任から逃れていいとも思いません。

でも、その発言に至るまでの経緯のなかで個人の問題以前に構造的な問題や周りができることはなかったのかと考えてしまいます。

そしてメディアの取り上げ方世間の反応をみていても、責任は問うけど本質的な議論に至ることが少ないなと感じています。これって大問題じゃない?

発言の責任を問うことにばかり意識が行くと、炎上を避けようと積極的に発言しない人も出てくるんじゃないかな。またそれに慣れてしまうと考えることすらやめる人も出てきそうで心底不安になります。

偉そうにつらつら語ってしまいましたが、わたし自身も全く同じように萎縮して言葉が出ない瞬間があります。

それに加えて、本心で出たのか周りに合わせようと出たのか分からない発言に気づくことも。

大抵それに気づく時はあまり好ましくない発言をしているので、無意識のうちに自ら発した加害性のある言葉で傷ついてしまいます。

自分を傷つけたというより、誰かを傷つけるかもしれない言葉を発してしまった自分に幻滅するって言う表現の方が近しいかな。心の中ではそう思ってるんじゃないかっていう恐怖もあったりします。

冷静に考えてみると分かることなのに、ほんと何故なんでしょうね。

ちょうどそんなことを考えている時に、たまたま特権性と加害性をテーマに取り上げているPodcastを見つけました。(※詳しくは下のリンクから)

このPodcastを聴いて、あのSIRUPさんも同じようなことで悩みながら活動してることを知り、ちょっとだけ安心しました。

特権(Privilege)については、アメリカを中心によく議論されている印象があります。日本でも国際系の学部だと馴染み深い内容だけど、他の学部はどうなんだろう。世間一般でみるとまだまだ認知度が低い気がしています。

オリンピックでは「多様性と調和」を強調されていましたが、森元会長の発言などを踏まえて考えるとまるでその気を感じませんでした。

留学そして社会人を経験して数年が経ちましたが、歳を重ねるごとに日本はもう先進国ではないのだと痛感して悲しくなります。一時期、海外で働くことも視野に入れた方がいいのか悩んだこともありました。

わたしは多様性を育むためには教育が不可欠だと思っています。学生や若年層だけでなく、社会全体がもっと知識をつけていくべきだと。

他人事で済ませるのではなく、一人ひとりが当事者意識を持って社会と向き合う国であって欲しいな。「社会のために」「自分のために」もきっとなるから。

書いててちょっと恥ずかしくなるくらい想いが溢れてしまいましたが、自戒の念も込めて自分の言葉に悔いがないよう日々の行動を改めていきます。

Let's make a difference!

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