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「浪江を忘れていませんか?」 ~東日本大震災から13年 東北地方を巡る~


・訪問先双葉町・浪江町 

今年で東日本大震災から今年で13年が経ちました。

私は毎年訪問したい場所をYouTubeから探したり、各地方自治体のホームページを閲覧したり、年明けからTV欄より"震災"のワードで番組を検索してそれを見てから東北の訪問したい場所の候補を選んでいますが、今年は能登半島地震があったので東日本大震災の特集を組んだTV番組がほとんどありませんでした。
やはり多くの番組が放送されたのは10年目の年で、ここ数年は減少傾向にあると感じています。
若者のテレビ離れが進む昨今ですが、進んでSNSやネットで震災について調べようとする人はおそらく少なく、なんとなく目に入るTVで見れる環境は今でも必要なのではないかと感じています。
毎日では無くても少しでも震災に触れる機会があればいいと望みます。

今回訪問したのは福島県は双葉町・浪江町です。
何故そこにしたのかと言うと、以前に帰還意向に関する住民調査で双葉町で約60%、浪江町で約50%の方が「戻らないと決めている」とアンケートで答えていたのを見てその後、町がどのように変化していったのか現地に赴き見て感じたいと思ったからです。

以下、訪問した場所と感想を綴っていきたいと思います。

・双葉町 東日本大震災・原子力災害伝承館

・発災当時とその後の避難生活を示す資料など27万点を収蔵、約200点を常設展示している。

ここは3年前にも訪れましたが、この施設に着くまでの街並みや道路は今改めて見ても心痛む景色があります。
浪江町はまだ一部が帰還困難区域に指定されています。
本来自宅への帰り道のはずが「帰還困難区域」の看板が立ち、ゲートによって閉ざされているのを見るとただただ辛い気持ちになります。

黄色の看板に赤い字体はかなりショッキングです。

この施設では地震が発生してから津波、原発の爆発、メルトダウン、避難への動向が知れて当時起きた悲惨な流れが再確認できます。
資料豊富で知識も深まりますし、日本人として知らなきゃいけない事が詰まっている場所だと思います。

ここではまず始めに語り部講和を聞きました。
今回の語り部の方は福島県久之浜町(現在合併していわき市)に住む方です。
福島県は縦3つで割った時に西から会津地方・中通り・浜通りとなり、久野浜町は海に面した浜通りで地震・津波・原発・大規模火災の災害に襲われた町です。
語り部の方は趣味がカメラで地震発生から迫り来る津波の瞬間から復興に至るまでご本人がシャッターを切った貴重な写真をスライドショーで見ながら当時の体験を話してくれました。

語り部の方が話の途中で

「津波が引いた時に夫がペットを探しに行ったがそれ以降帰ってくることはなかった」

さらりと話してくれましたが、私はそれ以降その言葉が頭から離れず、話を100%集中して聞くことができませんでした。
津波は1波で終わりません、その後何回も2波、3波と続きます。翌朝まであったそうです。
語り部の方はこのような辛い実体験も何度も話してくれています。
映像で見ることも大切ですが被災した方の話を直接耳を通して聞くと印象がさらに深まります。
伝えてくれたことを受け取り、次へ活かさないといけません。

最後に災害時に必要なもの・困ったものとしてトイレだと仰っていました。
食べ物は物資として届きますが、水が止まった時のトイレの代わりだけはどうにもならない、語り部の方の友人は阪神・淡路大震災 を被災した方で、何より人糞のイメージが忘れられないと言っていたほどです。

ある専門家は災害におけるトイレ問題は命に関わると仰っています。
避難中にトイレに行くのが億劫になり水分を取らずにいると、脱水症状、エコノミークラス症候群、心筋梗塞、脳梗塞、誤嚥性肺炎等で命を落とすことにもつながるそうです。
また、水が止まり十分な機能を無くしたトイレは感染症の温床となり弱った体を蝕み、感染症の蔓延リスクが高まるとの事です。

簡易・携帯トイレの確保は1つと言わず複数の用意を検討し、防災の為の準備と災害へのシュミレーションは大切にしないといけません。

この伝承館は通路沿いの壁にいくつもの被災時の写真が飾られています。

1つ紹介させていただきます。

小学校低学年くらいの女の子が
自分の長い髪を大切そうに撫でる様子を写した写真です。

パパが撫でてくれたこの髪。
津波が迫る中、避難を呼びかけ続けた消防団の父との繋がりを感じ生まれて1度も髪を切ったことがない。
父のような消防士になるのが夢。

こういった写真は一つや二つではありません。たくさん掲示されています。

入館の際スタッフの方に写真の許可を尋ねたら、シアタールーム等の映像は写真・動画は禁止でその他は構わないとのことでした。

私は気が滅入りそうになった時に自分を奮い立たせるために写真をいくつか撮り大切に保存させて頂きました。
去年気仙沼で知った写真「水を運ぶ少年」は今も見ることがあります。
見る度に被災地との繋がりを感じ頑張ろうと思えるものです。

最後に
海洋放出される処理水についての展示が新しいく追加されていると思ったのですが一通り見た感じありませんでした。
個人的には、放射性物質を取り除いて排水すれば問題無いものと思っていたのですが、地元住民や漁業関係者の反対の動きを見るとそんな単純な問題では無さそうなので、この施設で海洋放出が安全であるという説明があることを期待していました。そういったものも今後追加されるといいなと思います。
住民の反対の理由としては福島県漁連が国や東電と結んだ「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」という約束に反して勝手に放水に踏切ったことが要因の一つのように感じています。
福島第一原発は廃炉までに40年かかるそうでまだまだ様々な課題が山積みです。先行きも明確に分かっていないそうで今後も動向に注目していきたいと思います。

・浪江町 有限会社柴栄水産 / いちます

・東日本大震災後9年振りに2020年4月から営業を再開。
・地元浪江町請戸(うけど)漁港で水揚げされた水産物。
・築地魚河岸でも高い評価を得ていた請戸港の活魚。
・名産ヒラメ・しらす・白魚等。

浪江町には請戸漁港といった大きい漁港があり、水産業の拠点として発展していきました。
福島の海は常磐沖とよばれ、黒潮(暖かい海流)とともに北上してきた様々な魚が、親潮(冷たい海流)で発生したエサ(プランクトン)を食べて大きくなる豊かな海です。 1年を通してたくさんのおいしい魚が福島の港に水揚げされ、これらを「常磐もの」と呼んでいます。

私は生しらすが目当てでしたが店員さんに聞くと今は禁漁の時期で今なら白魚が良いとオススメされました(残念ながらその日は船が出られず水揚げがありませんでした)
私はここで請戸産の熟成ヒラメ、ミル貝、真ダコを購入しました。

見るからに新鮮な鮮魚を前に銀色がいつもより神々しく感じます。

全て美味しかったのですが特に熟成3日目のヒラメはねっとりとした舌触りで旨み成分が口の中に溢れ普段食べているヒラメとはまるで違ってとても美味しかったです。
なんでも熟成するとイノシン酸という旨味成分が増加されてこの味になるそうです。親切な店員さんから情報教えていただきました。季節ごとの旬の魚を食べにまた訪れたいですね。

・浪江町 道の駅なみえ

・浪江町復興のシンボル。
・浪江産の新鮮野菜・海産物等の産地直売所。
・浪江の技・なりわい館併設

浪江町に来たらまずオススメしたいのはここでしょう。
浪江町役場の目の前に建てられ、この町の復興のシンボルとしてだけでなく、浪江町の魅力を存分に味わえる道の駅となっています。

まず浪江のグルメが堪能できるフードコートより「フードテラス かなで」でこちらを頂きました。

なみえ焼きそばとしらす丼

なみえ焼きそば(第8回B-1グランプリ日本一)は60年以上前から食べられているという浪江町のソウルフード。通常の3倍という極太中華麺はもっちりもちの太麺。具材は豚肉とシャキシャキもやしのシンプルイズベスト。後から知ったのですが七味をかけて食べるのが通らしいです。(通ぶりたかったです)
しらす丼に使われるしらすはもちろん請戸産、時期によっては生しらすもあるそうです。しらす大好きなのでまたチャレンジしたいです。(尚単品のしらす丼はしらす盛り放題)

また道の駅の隣には「なみえの技・なりわい館」が併設されており鈴木酒造では浪江の米と水で製造している日本酒「磐城壽(いわきことぶき)」の販売、日本酒をワンコインで試飲できるバーがあったり、地酒を使った甘味処、ソフトクリームやパフェ等もあります。甘酒プリンソフトが人気のようで見るからに美味しそうでした。
こちらでは酒蔵も見学できるのでお酒好きにはたまらないのではないでしょうか。

また伝統工芸の大堀相馬焼ショップがあります。
大堀相馬焼は、300年以上の伝統を誇る陶器で国の伝統的工芸品に指定された浪江町を代表する特産品です。実は先程のなみえ焼きそばにもこちらの陶器が使われています。
こちらではその伝統工芸の陶芸体験(土曜日のみ)もできます。

私は事前リサーチしていた鈴木酒造店が提案する、常磐ものの魚の甘・塩・酸・苦・旨の5つの味覚とコクを味覚センサーで分析し、それぞれをより美味しく味わうための相性度を計測した日本酒「魚酒(ぎょしゅ)マリアージュ」シリーズから「常磐もののヒラメと呑みたい磐城壽」とテイクアウトで人気だった甘酒を瓶で購入しました。

たまに飲む甘酒って美味しいですよね

魚種マリアージュは様々な種類が展開されていてヒラメの他にもあんこう、イワシ、スズキ、ホッキ貝やモクズガニまでもありました。
ホテルでいちますで購入した熟成ヒラメと呑みましたが、私が日本酒を苦手としている苦味や酸味が柔らかくなり、口当たりが軽く繊細なヒラメの味とマッチした日本酒だと思いました。

HPより引用  とても飲みやすくて美味しかったです。

この日は試飲はしなかったのですがよくよく考えたら近くのホテルを取っていたので歩いて来ればよかったと後悔していたりです。

浪江の酒で浪江の魚を食らう、ただそれだけの贅沢な日があってもいいのではないでしょうか。

・浪江町 おむすび専門店 えん


・元浪江町住民の店主が営むおむすび屋。
・素材に拘った具だくさんのおむすび。
・昼・夜営業ちょい飲みも可。

夕食に何店舗か行きたいお店をリストアップしてたのですが、「いちます」で購入した魚と磐城壽でいい感じになってしまったので、複数ある候補から「えん」ならおむすびで丁度いいかなと思い今回訪問しました。

ホテルからお店まで1km弱ですがこの日の浪江町はお昼に雪が降るほど寒く(私の住む地域は雪が降らないので最初はホコリかチリが舞っていると思いました)、夜も凍てつくような寒さで東北の洗礼を受けながらも旅行しに来てるなーと感じて歩いていました。

そんな中ふと見上げると夜空一面、星空が浮かんでいました。

ここは街の中心街ですが街灯もまだ少なく、光害が無いので星が綺麗に見えました。
地震が起きた時も停電で町が真っ暗になりましたが夜空には満点の星空だったと聞きます。
当時の星空は「絶望とは対極の希望の光だった」と感じたり、ある人は流れ星は天国へ向かう魂だというエピソードを思い出し、その多さに耐えられなくなり目を伏せ「あれほどつらい星空は、これまでもこれからも決して見ることはないだろう」と話す程でした。
今同じ場所で星空を眺めながら物思いにふけ、マフラーに顔を埋めながら足早に向かいました。

えんでは高菜と焼鮭のおにぎりを頂きました。
鮭は店内で焼き上げ丁寧に手作業で骨を取り除いて提供されているこだわりの逸品です。
握りたてのおにぎりはふっくらと空気を含んで口に入れると解け、具だくさんの鮭と絡みとても美味しいです。
種類も定番から変わり種、限定も含め10種類以上あり、色々楽しめるラインナップになっています。

店内はカウンターのみで、常連さんで賑わっていました。
先にお隣に来ていた方が浪江の方で、少しお話させてもらいました。
住んでいた地区が長く帰還困難区域に指定されていたので12~20歳まで中通りで過ごしていたそうです。
解除されてから戻ったそうですが、知り合いでも戻る人が少ないと仰っていました。
津波が来たところをGoogleマップで実際に教えてくれたり、趣味の話をさせてもらいました。
多感な時期を8年間地元以外で過ごすと地元に対する愛着や想いはどう変わるのか聞きたいこともありましたが、少し躊躇ってしまいました。どうしても軽々と聞いたらいけないのかなと、酒が入っていても余計なことを考えてしまう自分がいるのです。
言葉数少ない方でしたが私が浪江町・双葉町でおすすめの場所を聞くと真剣に長々と考えてくれてとても親切な方でした。やはり東北の人とは波長が合うというか近いものを感じています。

後で知ったのですが店内のメニューでお茶漬けもあったらしく〆に頼めばよかったです。
次回に持ち越しですね。

・浪江町 震災遺構 浪江町立請戸小学校

・コンセプトはありのままを残す。
・海岸から300mにある小学校。
・大平山まで決死の避難

請戸小学校の避難の様子を紹介させていただきます。
震度6強を観測してから迅速に校庭に避難、直ぐに近所の人が「津波がくるから逃げろ!」と学校に駆け込んできました、皆即座に1.6km先の避難先の大平山へと向かいます。
しかし道路は避難中の車が行く手を阻みます。
更に子ども達を見つけた保護者の車が停まってしまい、それが原因で大渋滞になりました。職員はここで子ども達を保護者の車に戻してしまうと更に混乱を招くと思い、保護者の車に戻さずにそのまま太平山へ避難を続けるように指示をしました。
保護者の方には「これから子ども達は役場まで避難させるので、役場に迎えに来てください」と声を掛けました。
しかし大平山は訓練でも登ったことはありませんでした、子ども達も普段遊びに入るような場所ではありませんでした。この時もどこから山に入れば良いのか、山の入口までは知りませんでした。ところが野球のトレーニングで入ったことがあった小学四年生の男子児童が「先生!こっちだよ!」と入口を教えてくれました。その子に付いて山に登っていくことができたのです。
こうして無事に15:15大平山のふもとに避難が完了しました。

津波到達時間は15:33。15mを超える大津波でした。

その日は雪が降っていて地震の恐怖だけではなく寒さとも戦っていました。そんな中、通りがかったいわき市の運送会社のトラック運転手の方が荷台に全員を乗せてくれました。こうして大平山から降りることができ、町役場まで全児童避難完了できました。

トラックのおかげで無事に町役場まで避難できました。
この辺りは住宅や田んぼがありましたが、
一瞬にして辺り一面が海になってしまいました。

津波の到達時間を考え、避難の道筋を辿るとひとつでも選択を間違えていたら大惨事になり兼ねない状況が続いていました。保護者の方や地域の方との信頼関係はもちろん、教員の方が生徒の意見も取り入れる柔軟な環境と冷静な判断が避難を成功させた要因だったことが分かります。

来館した方々には、「悲惨だった」「可哀想だね」という感情で終わるのではなく、新たな気づきを得て、避難の成功モデルとして今後もあり続けて欲しい震災遺構だと思いました。

最後に大平山から浪江町の役場に避難して親の迎えを待っていた子どもたちは、家族も全員無事な子どもたちばかりではありませんでした。子どもたちが親元に引き取られて行く中で、最後まで残った子どももいたそうです。両親を亡くしてしまった子どもは、その翌日から始まった過酷な避難生活を過ごすことになりました。このことも忘れずに覚えておいて欲しいです。

・双葉町 フタバスーパーゼロミル エアーかおる双葉丸

・中野地区復興産業拠点。
・働く拠点魔法の糸スーパーZERO®️。
・撚糸工場の見学が出来る通路あり。
・キーズカフェ併設。

個人的にタオルフェチなので今回必ず訪問したかった場所がこちら。
魔法の糸スーパーZEROとは水に溶ける水溶性の糸を使った世界初の特集撚糸工法で作られた糸。繊維の間にたっぷり空気を含むので高い吸水性と速乾性をもちあわせた糸で、一般のタオルに比べ1.5倍の吸水力を持っているそうです。またふわふわとした優しい肌触りが特徴です。
ショップには様々な用途に合わせ、サイズ展開された色とりどりのタオルが綺麗に陳列されています。
カラーにもこだわりがあり、双葉町の桜フタバサクラ、日本の水浴場88選に選ばれた双葉町の海フタバブルー、双葉高校が何度も甲子園に出場していた時のチームカラーフタバグリーンと色とりどりの種類で目移りしてしまいます。

陽が降り注ぐ開放感ある館内です。

私は伊藤園とのコラボタオル、お茶のカテキン効果で抗菌防臭タオル等購入しました。タオルにほのかにお茶の香りいがする珍しいものです。

お土産にも喜ばれるかと思います。

見学通路には創業からスーパーZEROの制作秘話、双葉進出への流れが順を追って知ることが出来る掲示があります。

すしざんまい笑

館内にはカフェも併設されておりゆったりとした時間を過ごすことが出来ます。

・まとめ

これは震災前の浪江町のプロフィールです。

原発ができる前の浪江町は、第1次産業の農業を基幹産業とする町でした。町民の所得が低く、農閑期になると男たちは都会へ出稼ぎに行かなければならなかったそうです。福島第一原発1号機が運転開始した1971年頃から、第3次残業、電気・ガス・熱供給・水道業就業者に占める割合が増え、地元だけでなく全国各地から浪江町へ労働者がやってきて雇用をもたらし、町民の多くが恩恵を受けて町の発展と潤いを持つようになっていきました。
しかし原発事故を受け「全町避難」の指示を受け住民ゼロの町になってしまいました。

今回訪問しての感想としては、確かに町はまだ人も以前の2万人から2千人とかつての町に戻った訳ではありません、しかし発展の途中だからこそ町には「浪江のモノ」が沢山溢れていてよりダイレクトに町の魅力を知れると感じました。
何も無いと感じる人ももしかしたらいるかもしれません。
しかしよくよく考えたら地元なんてほとんどがそうじゃないでしょうか。
むしろ6年間住民0人だった町だからこそ何かアクションを起こそうとしたエネルギーに満ちた人・企業があり、町おこしの気概を感じることが出来ました。覚悟を持った人、自らが何とかしようと想いを持った人が集まった時のパワーは計り知れません、去年訪れた気仙沼でもヒシヒシと感じました。
浪江町の現在の人口の3割が移住してきた人だそうです。若年層の移住に見えるように浪江町は「2024年版 第12回 住みたい田舎ベストランキング 人口1万人未満の町」の2部門で1位となっています。
帰還アンケートでも戻りたいと思う人が以前より多くなっているそうです。帰る人や新しく来る人、今後も増えることを望みます。


突然ですが私は趣味として登山をしています。登山ではある条件を満たした時に山頂付近で奇跡の瞬間に出会えることがあります。

それは何かと言いますと「無音」です。

条件としては森林限界、高山など冬の強風や低温、乾燥など厳しい環境のもとで樹木が生育できる境界線のことを言います。だいたい標高2500mくらいになります、これを超えてくると木の背も低く、岩肌むき出しの山になっていきます。富士山でいうと5合目より少し上のところでしょうか。野生生物も生きるのに困難なので少ないです。
もうひとつは無風、山頂は風が吹き荒れることが多いですがこちらも条件のひとつです。
最後は雨では無い日。
この条件が揃った時その場所は「無音」になります。生活音はもちろん自然界の音も消える瞬間が訪れます。
普段雑音の中で生活しているとこの「無音」は不思議な体験でとても貴重に感じます。それと同じ瞬間が双葉町にはありました。

フタバスーパーゼロミルから出た瞬間に標高2500mと同じ「無音」を感じました。

人によって理想の町があると思います。歩いて行ける距離に24時間空いているコンビニがあることが住む上で大切だと思う人もいると思います。
飲食店、商業施設で栄えていた方が便利かもしれません。
しかし全ての人がそうだとも言えません。果たして本当に今いる環境が最適なのか本当に大切なものはなんなのか。都会の喧騒から離れこの静かな町に来てゆっくり答え合わせをしてみるのも良いのでは無いでしょうか?

「知るということも復興になる。」と言った言葉があります。
浪江・双葉含む東北の町に来て
過去のこと、現在のこと、未来のこと、少しでも考えて肌で感じてもらえたらと思います。








トップの写真は請戸小学校に展示されていた卒業生の震災10年後の文章です。素直な文章に心打たれたので是非一読してみてください。

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