日本史B 中世3 執権政治と幕府の衰退
Ⅰ執権政治の展開
3代執権 北条泰時(やすとき)の時代
連署(れんしょ)の設置:執権の補佐役 初代は北条時房(ときふさ)
評定衆(ひょうじょうしゅう)の設置:重要事項を有力御家人(評定衆)で合議する仕組み
御成敗式目:源頼朝以来の先例や武家社会の道理に基づいた法律
御家人にのみ適用された法律
朝廷の支配地域には御成敗式目が適用されず、公家法や本所法が適用された
5代執権 北条時頼(ときより)の政治
宝治(ほうじ)合戦:有力御家人三浦安村(やすむら)が倒される
引付衆(ひきつけしゅう):評定衆の補佐に当たり所領の訴訟を専門に行った
皇族将軍:摂家将軍(藤原家の将軍)に代わっておかれた将軍
初代は宗尊(むねたか)親王が就任した
Ⅱ鎌倉幕府の職制
侍所:御家人の統制機関
公文所(後の政所):政務機関
問注所:訴訟や裁判を行う機関
京都守護(後の六波羅探題):京都の警備を行う
九州には鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)、東北には奥州総奉行が置かれた
奥州総奉行は奥州藤原氏の滅亡がきっかけで置かれた
御家人制度
御家人と将軍の間には主従関係が敷かれていた
奉公(ほうこう):将軍のために戦うこと
京都大番役:京都の警備
鎌倉番役:鎌倉の警備
御恩(ごおん):将軍が奉公に対して報いること
新恩(しんおん)給与:新しい土地を与えること
本領安堵(あんど):土地の支配を将軍に認めてもらうこと
Ⅲ鎌倉幕府の衰退
8代執権 北条時宗(ときむね)の時代
蒙古(もうこ)襲来 フビライ=ハンが中国に建国した国(元)
文永の役(ぶんえいのえき):1度目の元の攻撃
終結後の対応
博多湾に防塁(ぼうるい)(石塁)を敷く 画像をチェック
九州の湾岸警備のための異国警護番役(いこくけいごばんやく)を強化
弘安(こうあん)の役:2度目の元の攻撃
暴風雨が起こって元軍が撤退
9代執権 北条貞時(さだとき)の時代
御家人の窮乏化
蒙古襲来に対する御恩(恩賞)がほとんど与えられなかった
分割相続を続けた結果所領が細分化した
分割相続:兄弟に所領を分けて相続させること
永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)(1297年)
御家人が売った土地が無料で帰ってくる
御家人に売った土地は20年未満でないと帰ってこない
徳政令の効果は薄く、窮乏化に歯止めをかけることはできなかった。
Ⅳ得宗専制体制の確立
御家人の弱体化に合わせて北条氏が勢力を強める
蒙古襲来の後に西国にも勢力を伸ばす
全国の守護の半分は北条氏が占める
北条氏の中でも権力を握ったのは得宗(とくそう)と呼ばれる家です
得宗:家督を継ぐ家を指します
得宗家が権力を一手に握り専制政治を行った
霜月騒動(しもつきそうどう)
御内人(みうちびと):得宗家の家臣
内管領(うちかんれい):御内人の代表者
内管領の平頼綱(たいらのよりつな)が有力御家人である安達泰盛(あだちやすもり)を倒した事件
得宗家の家臣が他の御家人よりも権力が上になる
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