「 敬う気持ち 」はどこからくるか?
先日、都内のあるお店にいたら、怒号が聞こえてきました。
「ふざけんじゃねえよ! 謝れ!」
振り返ると、40代くらいの男性が店員の男性を怒鳴っていました。
「客に対しておかしいだろ? 敬う気持ちがねえだろうが」
店でずっと大声を上げながら、店員の対応に敬意がないと怒鳴り続けていました。
そのお店は平日のお昼でも結構混んでいて、周りにいる人や外国人観光客らしきグループもその異様な光景を見ていました。その視線に気づいたのか、男性は5分程度怒鳴った後、退店しました。
怒鳴られていた店員さんはその男性が店を出るところまで確認した後、何事もなかったのように持ち場に戻っていきました。
周りにいた他の店員さんの様子や、怒鳴られていた店員さんの反応から見ると、その男性は常習犯なのかもしれません。
お店からしたらこの上ないくらい迷惑な相手だと思うし、こういう人を出入り禁止にできないのだろうかと感じたりもしたのですが、私が一番気になったのは男性が言っていた「 敬う気持ち 」という言葉でした。
男性が店員さんに要求している「 敬う気持ち 」というのは、そもそもどうやって湧くのだろうと思ったのです。
「 敬う 」の意味は「 相手を慈しみ礼を尽くすこと、尊敬すること 」だそうです。
世の中のすべての人を慈しみ礼を尽くすのが、人間としてはベストかもしれませんが、世間一般的に「 敬われる人 」ってどんな人かと考えてみました。
自分よりもご年配の方、何かの賞を取るなど人より突出した成績を出した方。大勢に認められていなくても、自分の身近にいるさりげないフォローや気遣いをしてくれるような人も尊敬され、敬われるかもしれません。
つまり「 尊敬 」は大抵の場合、その人が生きてきた中で得てきた成果か、今目の前で見せてくれた行動や態度によって感じるのです。
そうやって突き詰めて考えていくと、そもそも「 敬う気持ち 」は何もないところで急に心に降って湧くものではないということが分かってきます。
もちろん、「敬え!」と言われて抱くものでもないですし、仮に偉業を成し遂げた人だとしても、それを自分がすごいと思えなければ、その感情を抱くことはないでしょう。
つまり「 敬う気持ち 」というのは、なかなか成し遂げられないことをした人や、尊敬に値する行動や振る舞いをしている人を、自分がすごいと思えた時に湧くものなのです。
だとすれば、もし人に敬われたいのであれば、敬われるに値する成果か行動を自分から相手に見せ、認めてもらう必要があるということになります。
周りへの配慮もなく、一方的に怒鳴って謝罪を求める人に対して敬う気持ちを抱くことは「 人対人 」のコミュニケーションとしてそもそも不可能です。むしろ、店員さんを怒鳴ることで、この男性は自分が敬われるチャンスを失っているのです。
別に店員さんに都合の良い客になりすぎる必要はないと思います。
もし本当にトラブルがあって何か言いたいことがあるのなら、怒鳴るのではなくて相手に理解してもらえるようにそれを伝える。その店員さんにうまく伝わらないのなら別の店員さんを交えて事情を伝えるなど、やり方は色々あるはずです。そういう自分の動き方があって、相手に丁寧に相手をしてもらえる、ひいては敬われるようになるのです。
人に敬われるには、自分が敬われるだけの人であることが必要。
相手が自分を敬おうとする気持ちは、自分から生まれる。
そんなことを冷静に考えられる人なら、人に対して怒鳴らないと思うのですが。「求めることとやってることが矛盾してるなあ、この人……」と思ったのでした。
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