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私がnoteを再開した理由

私は息子を妊娠中に「書きたい」という衝動に駆られ、noteをはじめた。いや、衝動に駆られたというより、「今、書かないといけない気がする」という焦燥感にも似たもっと強烈なものだった。

息子が生まれてからも書きたいことはたくさんあった。

でも、書けなかった。

なぜ書けなくなったんだろう、と不思議に思っていたが、最近、ようやく書けなくなっていた理由に気が付いたのだ。

それは、私は息子が生まれて母になり、これまでに経験したことのないような思いや感情が次から次へと溢れ出してきたから、私はこれらの思いや感情をまだ言葉で表現できなかったのだと思う。そして、息子が生まれて1年ちょっと経った今、ようやく少しずつ自分の思いや感情を言葉にして昇華できるようになってきたように思う。

そんな感じで、そろそろnoteでも再開するかな、と久しぶりにnoteを開いたら、書きかけのnoteが2つあった。

1つめは臨月になった頃に書いていたnote。

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臨月になった。

切迫早産気味になり,1ヶ月自宅安静になっていたこともあり,臨月に入ってホッとした。

思い返せば,妊娠が判明するのよりも早くつわりがはじまり,2ヶ月間寝たきりになり,マタニティブルーにもなり,妊娠初期は心身共に辛い日々だった。安定期に入ったものの,つわりは治らず,それでも,胎動を感じるようになり,お腹の中の長男をしっかりと感じとることができるようになってからは幸せな気持ちでいっぱいだった。結局,臨月に入った今でもつわりは続いているし,途中,私自身の体重が増えなかったり,貧血やら切迫早産気味やら,マイナートラブルは絶えなかったし,妊娠が判明してからの約7ヶ月,常にどこかしら体調が悪くて,不安もたくさんで,心身の辛さはきっとこれまでの人生で一番だったと思うのだが,それでも,妊娠期間は幸せの方が上回っていて,私のこれまでの人生で最も満たされた日々だったように思う。また,noteをはじめるきっかけにもなったように,妊娠してからというもの,私の中で人生観がガラリと変わり,物の見方,世界の見え方が180度変わったように思う。私の心は目まぐるしく変化していって,妊娠が判明する7ヶ月前と今では,私の考え方や価値観はすっかり変わったし,徐々に「母親」になれてきたように思う。

そして,臨月になった今。

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ここで止まっている。

私は、「臨月になった今」何を想っていたのだろう。今となっては分からない。


そして、2つめは息子が11ヶ月になった頃に書いていたnote。

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命を生み出すということ

息子は生後11ヶ月になった。私も母親11ヶ月生になった。

この間,息子は笑うようになり,ご飯が食べられるようになり,物を掴めるようになり,言葉を発したり,ギャハギャハと笑い転げたり,コミュニケーションを取れるようになり,寝返りをするようになり,ハイハイをするようになり,つかまり立ちをするようになり,伝い歩きをするようになり,踊ったり,歌ったり,いろんなことができるようになった。3200g台だったのにあっという間に10キロを超えた。髪もフサフサ,歯も4本生え,しっかりした顔つきになり,楽しいとクシャクシャ笑顔で,怒るときは顔を真っ赤にして,いろんな表情を見せてくれるようになった。毎日毎日,一生懸命に努力して,新しいことがどんどんできるようになっていく。どんな言葉でも足りないほどの愛おしさを感じさせてくれる。我が家のアイドルであり,ヒーロであり,宝物だ。

一方で,私はどうだろうか。この11ヶ月,私はひどく混乱していたし,世界中の母親で一番ダメな母親なような気さえしている。

***

これはほんの数ヶ月前の書きかけのnoteなのに、それでも、今となっては続きが書けないのだ。

そもそも、息子が11ヶ月のときにnoteを書いていたことすらすっかり忘れていた。

やっぱりそのときに感じたことはそのときにしか書けないのだな、ということを痛感した。

記録魔な私にとってはこれだけでnoteを再開しない理由はなかった。


加えて、「趣味 カメラ」だった私がnoteを再開することは必然的だとすら思う。

私は写真が好きだ。20代後半でカメラ好きの父親の影響で初めて一眼レフを握り、それ以来すっかりハマってしまった。フィルターを通した世界は実際の世界とは違って見える。まるで撮影者の目を通して見ている世界が映し出されているかのようだ。この世界はみんなそれぞれ「自分」というフィルターを通してしか見ることができない。最も客観的に見える写真ですら、撮影者によって全く違うものになるのだ。

そして、同じ撮影者が同じ被写体を撮ったとしても、時期が違えば、また違ったものに見える。今見た景色は今しか見れないし、今見た景色は今しか撮れない。そんな思いが強すぎて、私は行く先々で立ち止まってシャッターを押しまくっていた。

そんな私が母になり、今やすっかり息子の専属カメラマンだ。外出するときはいつもNikonの一眼レフを首から下げている。コロナ禍になって、常にメガネなので、メガネにカメラ、昔のハリウッド映画に出てくる「日本人」そのものだ。そんなもんだから、息子が生まれて1年ちょっとであるが、すでに1万枚くらいは撮っていると思う。今の息子は今しか撮れない!その思いが強すぎて、家ではよく「記録係」と言われる。そして、生まれた頃からカメラを向けられていた息子は、1歳にして、すでにカメラ目線で微笑むようになった。タイマーをセットして家族で集合写真を撮れば息子が一番キマっている。撮り直しの原因を作るのはいつも大人の方だ。息子はカメラを触るのも大好きで、よく画面をシュッと人差し指でスライドさせながら撮った写真を鑑賞している。

こんな感じで私は元々かなりの記録魔だ。これまでは目に見えるものを記録することに必死だったが、これからは内面についても記録していきたいと思った。私は、息子が生まれてから、毎日、スマホのアプリで日記はつけてきた。それはいつか息子が見ることを前提に、息子の今日の様子やできるようになったこと、息子のことが大好きだということなどを綴ってあるが、私の内面というより客観的な内容が多い。だから、その日記とは別に、私の内面を綴れるnoteを続けていければな、と思った。

そして、もう1つ、私がnoteをはじめたきっかけは、私自身が生まれてきて良かったかどうかも分からないのに、そんな私が子どもを生むことが許されるのか、ということを文章にして昇華したかったからだ。

私は思春期あたりから、私は生まれてきて良かったのか、私はこの世界に祝福されて生まれてきたのか、と悩んでいた。これは、高校生の頃に読んだ本に、「人はみな祝福されて生まれてくるべきだ」というようなことが書かれていて、これを読んだ私は果たして祝福されて生まれてきたのだろうか、と苦悩することになったのだ。

そんなある日、私は何気なく幼い頃のアルバムを見ていて、ハッとした。

そのアルバムの中にあった1つの写真。それは、母親が私を抱っこし、父方の祖父母が隣にいて、3人で私を囲むように談笑している写真だった。その写真を撮ったのは父親だ。

この写真を見て、あぁ、私はちゃんと祝福されて生まれてきたんだな、と心から安堵した。

何気ない写真。でも、その写真を撮った父親も、また、その光景を残したいと思ったのだろう。

この写真は幾度となく私を救ってくれた。なにかに深く傷ついたとき、道に迷ったとき、世界が敵に見えたとき。私が生まれたことを祝福し、私を愛してくれた人たちがいる。だから、きっと大丈夫、と。

だから、私も息子に写真を残したい。あなたはこんなに祝福されて生まれてきて、あなたはこんなに愛されていたんだよ、と伝えたい。もしかすると、私が撮った何気ない1枚の写真が息子にとってのかけがえのない1枚になるかもしれないから。

そう思うと、このnoteをいつの日か息子に見せるかどうかはまだ決めていないが、このnoteももしかすると息子やそれ以外の私の大切な人にとって意味のあるものになるかもしれない。

人生は先に進んでゆくばかりで、巻き戻しはできない。でも、こうやってそのときどきを紡いでいけば、あとから、人生の1ページをそっと読み返すことはできると思うのだ。

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