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【1-6】戦国時代の城跡から五日市盆地を望む「城山」[あきる野市・戸倉]

みなさんこんばんは!バックスリーです。

今回は戸倉編第6弾として戸倉エリアのシンボル「城山」を紹介します。

城山はその名の通りかつて戸倉城というお城があった山で、以前紹介した戸倉しろやまテラスの名前もこの山にちなんでつけられています。

それでは行きましょう!

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■城山ってどんなところ?

標高は434メートル。秋川とその支流である盆堀川(ぼんぼりがわ)に挟まれた要害(地形がけわしく守りに有利なこと)の地にそびえたっています。

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かつてこの山の山頂には、戸倉城と呼ばれるお城があったみたいで、城山の山内には現在も井戸の跡などが残っています。

山頂からの展望は抜群で、あきる野市内はもちろん、天気がいい日にはなんと房総半島まで見渡せます!

実際僕が訪れた日も、東京スカイツリーらしきものも確認することができました。

ちなみに西戸倉側の登山口から山頂までの所要時間はだいたい20分~30分。登るときは普段運動していないと割と疲れます笑

戸倉側(光厳寺横)からの登山道もありますが、行ったときは台風の影響で通行止めになっていました。(令和3年3月現在は通行可能とのこと。)

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(井戸の跡)

■戸倉城とは?

かつて城山の山頂にあった戸倉城とはどんなところであったのでしょうか?

史実を裏付ける史料は残念ながら残っていないみたいですが、言い伝えによると、室町時代に地域の武士集団「武州南一揆(ぶしゅうみなみいっき)」の構成員である小宮氏によって築城されたと伝えられているみたいです。

またその後の天文15年(1546年)には、多摩地方の有力豪族(一定の支配権を持つ地域の一族)であった大石家の当主大石定久がこの戸倉城に隠居したと伝えられています。

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■武州南一揆について

戸倉城を築いた小宮氏が所属していた武州南一揆とは、簡単に言うと室町時代に多摩地域(地域範囲に関しては諸説あり)の有力武士によってつくられた地域の武士集団的なもので、秋川流域の地域を勢力基盤にしていたみたいです。

関東地方で戦乱が起きた際などに活躍していた記録が残されていますが、のちに小田原城を本拠地とする後北条氏(次の項目で紹介します)が多摩地域を支配していく過程で消滅していったと推測されています。

一般に南北朝時代~戦国時代にかけては、全国的に戦乱が多く発生したため、当時の有力武士層(国人)は、集団をつくって、力を合わせたとされます。日本史だとこのような集団を国人一揆(こくじんいっき)と呼んだりしています。

ちなみに一揆内のメンバーは、中心となる者がいても、上下の関係はなく、平等を原則としていたみたいです。

武州南一揆に関する資料については以前noteで紹介した三島神社等に残されています。

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■後北条氏と大石定久について

後北条氏とは、小田原城を拠点にした北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の5代にわたる戦国大名です。

鎌倉時代の「北条氏」(時宗とかあの辺の人たち)と区別するために一般的に、「後北条氏」とよばれています。

北条氏と名乗った理由としては、鎌倉幕府の政務を担当した執権(しっけん)北条氏の後を受けて、自らを武蔵・相模の地域の正統な支配者であると主張したかったためだといわれています。

後北条氏は現在の西多摩地域も支配下に入れいていたため、西多摩の歴史を見る際には、今後もしばしば登場するとおもいます!

そして大石定久と後北条氏の関係についてですが、

大石氏はもともと多摩地域の有力な一族で八王子の滝山城の城主でしたが、当主が大石定久の時に、北条氏康の子である氏照を養子にしたことから、大石氏は実質、後北条氏の陣営に入ることになります。

その後大石定久は養子の氏照に家督を譲り、戸倉城に隠居したと今日まで伝えられています。

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■さいごに

あきる野市戸倉エリアのシンボル「城山」。

標高もそこまで高くないため、比較的気軽に登ることができます。

山頂からの眺めはまさに絶景なので、歴史について詳しくない方にもおすすめのスポットです!

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【参考資料】

・『日本史B用語集』山川出版社

・『五日市町史』五日市町(1976)

・国土地理院地図

文責:バックスリー

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