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【5-1】“打ちこわし”に”蛇喰い伝説”!? 筥の池にまつわる物語を探る「狭山池公園」[瑞穂町]

みなさんこんばんは!バックスリーです。

年が明けて厳しい寒さが続く中、オミクロン株の流行と、巣篭もり生活がまだまだ続きそうですね。

さて、今日は瑞穂町編の第1弾の記事投稿になります。

瑞穂町編最初の舞台は、箱根ヶ崎駅から徒歩15分ほどの場所にある町民の憩いの場”狭山池(さやまいけ)公園”です。

一見何気ない普通の公園ながら、さまざまな物語や歴史が潜んでいるスポットになっています。

それではみてきましょう!

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■狭山池公園とは?

狭山池公園は、JR八高線箱根ヶ崎駅から徒歩15分の位置にある池を中心とした親水公園です。
主に3つの池で構成されている公園内では、野鳥観察や釣り、散歩などを楽しむことができます。遊具や噴水もあるため子供の遊び場としても最適です。
過去には多摩川流域リバーミュージアムにより多摩川50景にも選定されており、”飛ぶ宝石”とも喩えられるカワセミも飛来します。

現在は狭山池と呼ばれているこの池ですが、昔は”筥(はこ)の池”と呼ばれていました。
鎌倉時代の歌集等にも名が見えるほど、昔から人々に知られていた池だったみたいです。

『夫木集(夫木和歌抄)』より
冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき

”筥の池”と呼ばれていた頃の池の大きさは、現在よりもはるかに大きく、雨が降るたびに周辺約17ha(東京ドームの約3.85個分)が水浸しになっていたそうです。
また池の周りの地質も粘土質であったため、水捌けが悪く耕作もできず、周辺には広い芝地が広がっていました。

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そんな狭山池公園ですが、園内にはさまざまなエピソードが詰まっています。
今回はその中でも3つのエピソードを紹介していきたいと思います!

■天明の飢饉と打ちこわし

まず初めに紹介するのは、江戸時代の”天明の飢饉(てんめいのききん)”の際のエピソードです!

※天明の飢饉とは
1782~1788年(天明2~8年)にかけて起きた飢饉で、享保・天保の飢饉とあわせて江戸の三大飢饉とされています。
東北地方の被害が甚大で、仙台藩だけでも餓死者が30万人。
人々は草の根や木の皮を食べて飢えを凌ぐこともあったみたいです。

天明期は、全国的に大雨や浅間山の噴火、疫病の流行などが重なり飢饉による打ちこわしが頻発した時代で、西多摩でも”狭山池”を舞台に打ちこわし事件が発生しています。

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以下エピソード↓

全国的に飢饉が続いていた天明4年(1784年)2月27日、西多摩地域の40弱の村々に張り札が貼られました。

張り札の内容はざっくり見るとこんな感じです。
「近年凶作により米価が高騰しているにも関わらず、一部の商人が買い占めを行っている。商人たちに交渉をするため各村から人を差し出してほしい。集合場所は、箱根ヶ崎(はこねがさき)の池尻(狭山池付近)。参加しない村には大勢で押しかけることもある。」

そして約束された翌日、集合場所の狭山池周辺の芝地にはなんと2、3万人の農民が集まっていました。
ちなみに現在の瑞穂町の人口は約3万人。すごい数です。

狭山池に集まった農民たちは商人の家をめがけて打ちこわしに向かいます。
付近の住人たちは、危険を回避するために逃げたり、女性や子供なんかは泣き喚いたり、かなり緊迫した状況だったみたいです。

打ちこわしはその日の夜から翌日未明にかけて行われ、現在の武蔵村山市、東大和市にあった商人の家5件が標的となりました。

ナタやノコギリで家や物を破壊し、最後に火を投げ入れるなど打ちこわしは徹底的に行われました。

結果的には打ちこわしは1日で終わったみたいですが、63人ほどが囚らえらえ、西多摩地域にかなり大きな衝撃を与える事件だったみたいです。
商人の買い占めに対する、農民の怒りが爆発した事件として、天明期を象徴するエピソードです。

※天保の飢饉に関するエピソードも【1-1】樹齢400年を超える桜の木の下で歴史に思いを馳せる「光厳寺」[あきる野市・戸倉]で紹介しています。

■蛇喰い次右衛門伝説

続いて紹介するのは蛇喰い次右衛門(じゃっくいじえもん)伝説です!

最初の項目でも説明した通り、狭山池はもともと現在より数倍広い池でしたが、江戸時代になり、玉川上水への助水や大規模な池さらいを実施した結果、池の水位が下がり、現在の規模になったと考えられています。

以下で紹介する蛇喰い次右衛門伝説は、このような事情から誕生したエピソードと考えられています。

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以下エピソード↓

昔、狭山池が筥(はこ)の池と呼ばれていた頃、
池のそばに力自慢の次右衛門という青年が住んでいた。
夏の猛暑日に、次右衛門が筥の池で水浴びしていると、小さな蛇が次右衛門に絡みついてきた。
次右衛門は絡みつく蛇を離そうとしたが なかなか蛇が離れないため、蛇に噛み付いた。
蛇の首から血が流れ出た瞬間、空に雷が鳴り小さな蛇はたちまち大蛇に変身した。
しばらく蛇と格闘を重ねる次右衛門であったが、頭の頭に噛みつき引き裂くと 大蛇は池から逃げていった。
大蛇が逃げた道はまるで鍬で掘ったような跡となり、池から血色の水が流れていった。
その後も水が流れ続けたことから池の水量は減り、蛇が作った堀は川となり蛇掘川(じゃほりがわ)となった。※現在の残堀川(ざんぼりがわ)

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エピソードについて詳しく知りたい方は、以下のページに紙芝居動画が掲載されています!
※残堀川の由来については次右衛門伝説以外にも諸説あるみたいです。

残堀川は現在、瑞穂町から武蔵村山市、昭島市、立川市を貫流して、日野橋のあたりで多摩川に合流する河川です。

残堀川の特徴として人為的に流路変更が度々行われたことが挙げられます。

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上で説明した通り、江戸時代には玉川上水の助水として上水に接続されていましたが、明治時代に残堀川の水質が悪化したことにより、多摩川に放流するルートに人為的に改修が行われたみたいです。

現在でも立川市内では残堀川の下を玉川上水が立体交差する珍しい光景を見ることができます!

※玉川上水に関するエピソードは【4-4】歴史を感じる自然豊かな水辺の緑道「玉川上水in福生」[福生市]でも紹介しています。

■幕末の農兵隊制度と調練橋

最後に紹介するエピソードは狭山池公園にある調練橋(ちょうれんばし)に関するエピソードです!

何やらイカつい名前のこの橋ですが、実は幕末の農兵隊制度に深く関係している場所になっています。

※農兵隊とは
幕末に組織された農民の兵隊のこと。
江戸幕府は、1863年に、伊豆韮山の代官江川家の支配地において、村の治安維持のために制度が実現。他にも水戸藩や長州藩などが組織。

農兵隊制度の出現については、諸説あるみたいですがアメリカやロシアなどの列強の進出による国防意識の目覚め、平和慣れした武士の弱体化などの理由が考えられるみたいです。

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当時瑞穂町は江川家の支配地であったため、農兵隊制度が取り入れられました。
狭山池の周りの芝地でも慶応元(1865)年に、農兵による砲術訓練が行われた記録が残っており、調練橋の名前もここから由来しているみたいです。

ちなみに伊豆韮山の代官であった江川家で有名な人物といえば江川太郎左衛門英竜(えがわたろうざえもんひでたつ)。
江戸幕府に対して農兵隊制度に関する意見書を出した人物で、世界遺産の構成資産である”韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)”を建造した人物としても有名です!

■さいごに

今回は瑞穂町編のスタートとして、狭山池公園にまつわるエピソードを紹介しました!

今回は紹介しきれませんでしたが、公園内には弁財天があったり、文化財として日光街道に建てられた常夜燈(じょうやとう)が保存されていたりと、見どころが他にもたくさん詰まっています。

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瑞穂町に来た際にはまったりと散策を楽しんでみてはいかがでしょうか?

そして次回のNut-sは、

濃厚ジェラートが堪能できる話題沸騰の人気スポット

を紹介!

それでは次回の更新もお楽しみに!

参考
『瑞穂町史』(1974・瑞穂町)
瑞穂町図書館/温故知新 ― 瑞穂町を旅する地域資料

文責 バックスリー

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