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【3-6】”平将門vs俵藤太” 歴史の森に英雄たちの影を追う「平将門伝説」[日の出町]

みなさんこんばんは!バックスリーです。

日の出町編も今回で6回目。

実はつるつる温泉訪れたときに、こんなものを見つけました。

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箸袋には「平将門伝説の町 日の出町」の文字!

平将門(たいらのまさかど)といえば、平安時代に平将門の乱を起こし、日本三大怨霊の一人にも数えられる有名な歴史上の人物です。

そんな将門が日の出町とどんなつながりがあるのか、これは個人的に気になる笑

ということで

今回のテーマはズバリ日の出町に伝わる「平将門伝説」です。

史実と伝承が混ざる部分もありますが、楽しく見ていきましょう!

■平将門とは

平将門は、平安京遷都を行った桓武(かんむ)天皇の血を引いて、西暦900年前後に現在の千葉県のあたりで生まれたとされます。

将門が生まれた時代は、藤原氏による摂関政治(せっかんせいじ)が行われており、将門は15歳になると平安京(京都)に上京し、貴族に仕え、朝廷の警護などを行なっていました。

しかしその後、将門が生まれた関東地方で、将門の父の遺領をめぐって一族同士が領土争いを繰り広げます。

将門は京都から関東地方に戻り、横領を働いていた伯父の平国香(たいらのくにか)らを討ち取ります。ここから、徐々に将門は関東地方に勢力を広げて行きます。

また、当時の地方では、役人の賄賂(わいろ)が横行し地方政治が乱れ始めていました。正義感が強かった将門は役人をやっつけることで、民衆の歓迎を集め、ついには関東一帯を手中におさめます。

こうして将門は民衆からすればヒーロー、朝廷からすれば反逆者となっていきます。
将門自身も自らを親皇(しんのう)と名乗り、自ら理想の国家を作る決意をします。

このあたりが学校で習ういわゆる“平将門の乱”っていうやつです。

その後、朝廷は将門を討伐するために関東に将門討伐軍を派遣します。
一方でそれと同じ頃、将門に討たれた平国香の息子の平貞盛(たいらのさだもり)とその仲間である俵藤太(たわらのとうた)も将門を討つべく、奇襲を仕掛けます。

激戦の末、940年将門は貞盛・藤太の連合軍に討たれます。
その後将門の首は京都に運ばれ、晒し首にされ、後の時代に怨霊伝説が作られることになります!

以上見てきた平将門の乱は、同時期に瀬戸内海で起こった藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱と合わせて、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱と呼ばれています。
この2つの乱は日本史的には、

・地方の武士勢力が国家に対して起こした初めての反乱
・鎮圧にあたった平氏と源氏がその後勢力を伸ばすきっかけとなった反乱

として、とても重要です!

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■俵藤太とは

念のため俵藤太についても軽く見ておきます!

俵藤太とは、平将門の乱の鎮圧者で、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の別名です。
将門を討伐したことから、のちの時代に英雄視され、弓の名手として様々な物語などに登場します!
滋賀県の三上山(みかみやま)に棲むオオムカデを弓を使って退治したエピソードなんかは、わりと有名なので聞いたことある方もいるかもしれないです。

■日の出町に伝わる将門伝説

以上紹介してきた平将門ですが、その活動範囲の広さから実は、西多摩地域にも多くの伝説が残されており、その一つに日の出町勝峰山(かつぼやま)に伝わる伝説があります。

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平将門と俵藤太が戦を繰り広げていた頃、将門は藤太に追われて、相模方面から現在の日の出町大久野(おおぐの)付近に逃げてきました。
将門軍は約400人、藤太軍は約3000人、将門軍はだいぶ押されています。

そんな中、将門軍は大久野の勝峰山に一夜城を築き、籠城し、対する藤太軍は幸神(さちがみ・さぢがみ・さちかみ)あたりに陣を構え、将門軍の動向を見張っていました。
藤太が陣取ったあたりには現在も藤太橋(とうたばし)という地名が残っています。

藤太がしばらく橋の上から将門軍の動向を見ていると、遠くに将門らしき影を見つけました。藤太は将門の影を目掛け矢を放ちますが、藤太が放った矢は将門の鎧の裾をかすめ、遠くに消えていってしまいました。その後将門は、山を抜け、現在の青梅方面に逃げて行きました。

このエピソードから藤太の矢が越えた沢として、矢越沢(やこうざわ)、将門が青梅へ逃げた道として将門坂(まざか)という地名が現在も日の出町に残っています。

ちなみに日の出町の隣町青梅市の由来も実は将門に密接な関係があります!
青梅市のホームページによると

平将門が、青梅の金剛寺あたりを訪れた際に、馬の鞭(むち)に使用していた梅の枝を自ら地面に挿し、「願いがかなうなら咲き誇れ、叶わないなら枯れよ」といったところ、梅の枝が根付きました。ところが、この木の梅は青いまま熟さず、枝に残ったまま落ちることがありませんでした。これを見た人々が不思議に思い、この地を青梅と呼ぶようになったと伝えられています。

とのことです。
意外なところで歴史のつながりが発見できると面白いですね!

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■おまけ 日本三大怨霊

余談ですが、日本三大怨霊についても、見ておきます笑
怨霊伝説は基本的に、非業の死を遂げたことにより、のちの時代に創作され、広まったエピソードです!日本人は今も昔も怖いものとか好きですからね笑

①菅原道真(すがわらのみちざね) 現在は学問の神様とされていますが、一時期怨霊として恐れられていました。優秀すぎたが故、京都から九州に左遷された後に死去。その後京都では天変地異など様々な不幸が生じたとのこと。有名な京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう)は怨霊となった道真を鎮めるために建てられたと伝えられています。
②平将門 俵藤太に討たれ、晒し首とされた後も目を開けたり、叫び声をあげたりした後、最終的に宙を飛んで、関東に戻っていったエピソードが知られています。現在も千代田区に飛んできた将門の首が落ちたとされる首塚が残っています。
③崇徳院(すとくいん) 保元の乱(ほうげんのらん)後に、罪人となり島流しにされ死去。その後当時の政権を揺るがす出来事や災害が連発したとのこと。

怨霊を信じるか信じないかはあなた次第ですが、
個人的には時代や見方によって同じ人物が怨霊化したり、英雄視されたりするところに、日本の歴史や文化の面白さや奥深さを感じます。

■さいごに

今回は少し脱線しながらも、西多摩と平将門の意外な関係について紹介しました!

次回は俵藤太が陣を取った“幸神地域”にあるお店が舞台になります。

それでは次回の更新もお楽しみに!

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【参考資料】
『日の出町史 文化財編』日の出町
『日本史B用語集』山川出版社

文責:バックスリー

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