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『Swallow/スワロウ』画鋲=チ〇コ!?【映画考察・感想】

 本記事は映画内で描かれた「異食症」という要素を「病気」というよりは文学的な「メタファー」「象徴」として読み解いた内容です。
 結果として「異食症」は「男根への(セックスへの)欲望」を表現しているものであると私は考えました。
 なぜ彼女は「男根」を欲しているのか。そこについて考察してみます。
※本記事では出血を描写したカットを引用しているので苦手な方はご注意ください。
※ネタバレ注意

愛されたい

 主人公であるハンターは映画の各所で「必要とされていない」ことを突き付けられる。
 そんなハンターの願いはただ一つ。

「愛されたい」

①カルロ・ミラベラ・デイヴィス監督『Swallow/スワロウ(字幕版)』

 愛されると言っても色々な形があるが、この映画内で一番克明に描かれた愛され方は「セックス」だ(妊娠、レイプ、という要素からも「セックス」を感じ取れる)。
 膣内に(身体に)男性器が(モノが)入るというのは痛みが伴う可能性のあること。
 「画鋲」を食べることはほぼ100%の可能性で痛みを伴う行為だ。
 そしてハンターはセックスに対してかなり貪欲な人として映画内では描かれている(夫をベッドにかなり強く押し倒す描写があり、かつハンターが夫からセックスに誘われる描写は無い)。

 つまりハンターの「愛されたい」という願望は「痛みを感じたがっている」と変換することができる。
 ハンターの異食はまさに「痛みを感じるための行為」であり、疑似的な「セックス」であり、彼女にとって「痛み」=「愛された感覚」なのである。

 この解釈によって私は記事タイトルにもある通り「画鋲(食用でない異物)」=「男根」であると考えたわけだ。

なぜ「男根」にこだわるのか

 どれも直接的な表現で描かれるわけではないが、どうやらハンターは愛されていない。夫ですら言葉と態度がかみ合っていない。
 他人が自分を愛してくれているかどうか。それがハンターにとって何よりも知りたい情報だ。しかしそれを知るのは難しい。
 だから「男根」だ。
 「男根」は目に見えて自分に興味を持ってくれていることを知ることができるものである(生理的な理由でかたくなることもあるのだが)。
 しかし親・女性(この映画の場合は特に母親)は興味を持ってくれていること目視することが難しい。
 だから「チ〇コ」だ。
 身体に異物が入り込む「痛み」と異物の「かたさ(ハンターは「冷たい金属なんか特に好きよ」とカウンセラーに告げる)」を感じることで疑似的に愛を感じようとするわけだ。

なぜ血縁の父に会いに行き、涙したのか

 血縁の娘に当たるハンターに「ジル・マッコイを覚えてる?私の母よ」と言われるやいなやウィリアム・アーウィンは妻をキッチンから追い出し、「それで?私の人生をぶち壊す気か?」と問う。
 ウィリアムは家族や友人たちに誕生日パーティーをしてもらえるほど皆に必要とされている。
 しかしそれはレイプ犯という過去を完全になかったことにすることで成り立っている状況だ。
 つまりウィリアムは必要とされるために、受け入れられるために自分を殺し続けている。まるで結婚したての時のハンターのように。
 だからハンターはウィリアムに会いに行ったのだ。

ハンター
「レイプ犯である父は今どうしているのだろう。きっと私のように誰にも受け入れられない生活を送っているだろう。私の理解者になってくれる可能性があるのは私が知っている中で父だけかもしれない」

 と考えていたから写真を大切に持ち歩いていたのだ。

(ちなみにハンターが夫の誕生日パーティの時に親しげに話しかけた友人は中国人で、秘密を打ち明けたカウンセラーは黒人である。これは私の偏見なのかもしれないが、この「受け入れられなかった経験」がありそうな2人に心を開き傷つけられるという流れはかなり作為的なものを感じた)

 しかしウィリアムに会いに行ってみると、誕生日パーティが開かれるほど受け入れられている。
 しかしウィリアムがレイプ犯として投獄されていた過去を恥じ、隠し続けていることを知る。確かめずにはいられない。

ハンター
「私のこと恥じてる?」

 自分と同じで受け入れられていないはずのウィリアムは過去を恥じている。その恥にハンター自身も含まれているのすれば、唯一の理解者になってくれるはずだった人にも受け入れてもらえないことになる。受け入れてもらえていない者にすら受け入れてもらえない。ハンターにとっては絶望だ。
 しかしウィリアムは、

ウィリアム
「まさか 自分の行為は―恥ずかしいよ」

 と自分の恥にハンターは含まれておらず、ハンターを受け入れる姿勢を示す。

ハ ン ター「私とあなたは同じ?」
ウィリアム「分からない どう思う?」
ハ「違う あなたの口から聞きたい」
ウ「君は私と違う 君は―何もしてない
  間違ってないよ 君は悪くない」

 ハンターの「私とあなたは同じ?」という言葉には、「あなたのように私は皆に受け入れられない人間?」または「あなたのように自分を否定し続けて生きていかなきゃいけない?」という意味が含まれていると考えられる。
 それに対してウィリアムは「君は私と違う」と言う。
 その言葉には「あなたは居ていいんだよ。生きていていいんだよ」という意味が込められている。その言葉にハンターは涙したのだ。
(若干、ウィリアムの自己犠牲で成り立っている感は否めないが、「あなたの口から聞きたい」と言われたことへのある種の方便としての発言と考えればウィリアムにも贖罪を果たしたという救いはあるだろう。)

最後の出血は中絶薬の影響じゃない?(※血液注意)

※ここからの考察は意図して描かれた可能性低めだと思います(確信できるほどの描写が無いと私は判断しました)。あくまでも、こう解釈することもできてしまうということを書いています。

 終盤から引用したこのカットは、ハンターがおそらく中絶薬を服用し、その副作用として膣から出血している描写であると考えられる。
(前文で「おそらく」と書いた理由は、医師が説明していた4錠服用の薬を飲むシーンはあったが、1錠目の薬を飲むシーンがなかったからだ。それは出血してるんだから分かるだろ!そもそも1錠目飲んでなかったら4錠の薬飲まねーよ!とも思うが私個人としてはモヤッとする)

 ここで少し中絶薬の副作用について紹介する。(記事内容に関わることではないため「紹介」と書く)

「経口妊娠中絶薬「RU486」又は「ミフェプリストン錠」に関するQ&A
」より参照

Q4.「ミフェプリストン」によって起こる可能性のある副作用や健康被害は何ですか。
A4.外国の添付文書によれば、ミフェプリストンを服用すると、腟からの出血を引き起こす可能性があります。時には、腟からの出血が非常に重くなることがあり、場合によっては外科的な処置により止血する必要があります。
 また、2004年11月に、米国では添付文書の警告欄に、敗血症等の重大な細菌感染症や子宮外妊娠患者への投与による卵管破裂が追加されました。
 他の副作用としては、下痢、吐き気、頭痛、めまい、腰背痛等が知られています。

②厚生労働省ホームページ ,
個人輸入される経口妊娠中絶薬(いわゆる経口中絶薬)について ,
経口妊娠中絶薬「RU486」又は「ミフェプリストン錠」に関するQ&A ,
https://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/10/h1025-5.html ,
2004年10月.

 しかし、「ハンターの回復劇」の影響により忘れてしまいがちになるのは、ハンターの異食症が完治したという明確な描写が無いことだ。
 つまり先ほど引用したカットの出血は画鋲を排泄した時のように(下の画像)、

 異物によって出血した可能性が残っている。(それは出血量からして分かるだろ!とも思うが、私個人としてはやはりモヤッとする)

 もし異物による出血なのだとしたら、異食症が治っていないとすれば、それはどういう意味になるのか。
 それは

ハンター
「男根が欲しい」
「私、まだ誰かに愛されたい」

 という意味になる。
 この映画の一般的な解釈とは違い、結局のところハンターはまだ自分自身の足だけで立つことができていないと解することができるのだ。

①(血液が浮く便器の隣でへたり込むハンター)

 社会圧とかではなく、自分自身のどうしようもない欲望。
 そこから逃れる術はない。

中絶の突飛さ

 とりあえず異食症がどうなったのかは置いておいて、ハンターが中絶をしていた場合、なぜ中絶したのだろうという疑問が浮かぶ。
 ウィリアムの贖罪によって物語としては子を授かっても差し障りない流れであったように見える。
 この映画が「それは個人の自由でしょ」と言えるように作られていることは間違いない。しかし何か作者の意図があるのではないか。

 血縁の父ウィリアムとの会話での「私とあなたは同じ?」というハンターの言葉には、「あなたのように私は皆に受け入れられない人間?」または「あなたのように自分を否定し続けて生きていかなきゃいけない?」という意味が含まれていると考えられる、と前述した。
 この言葉をもう少し抽象化すると「私はあなたのように過去を抱え続けなきゃダメ?」という意味になる。
 ハンターにとっての”過去”とはお腹の子供の父である夫との日々。
 まるでツバメの子のように「ごはんを(愛を)くれ!くれ!くれ!」と泣き続ける日々。
 ウィリアムの「君は私と違う 君は―何もしてない 間違ってないよ 君は悪くない」という言葉は「過去を切り捨ててもいいよ」「過去と現在を切り離しても良いよ」という意味を持つ。
 この解答はなかなか社会に受け入れられにくいものであろう。しかしこれは映画だ。社会的な答えはこれから皆で考えなければならないものだ。これは作家が出したひとつの答えである。
 それは評価に値するだろう。

 しかし別の見方も出来てしまう。
 ハンターをツバメの子ではなく、カッコウの子のように捉えた場合だ。
 ハンターは仕方なく自分を育てる母のもとで育ち、結婚によって自分とは不釣り合いな家族の中に入り込み、貪り食い、最後は家族の一員になるはずだった卵(胎児)を巣から落としたのだと解釈できる。
 ツバメの子として生きてきたのにもかかわらず、カッコウとして生きていくことを選んだのだ。
 自分勝手に愛されたがり、自分勝手に逃げ出して、自分勝手に面倒な過去を捨てたのだ。

 つまりハンターは映画内では「100%の被害者」として描かれたわけではなく、「100%のスーパー自己中な人」として描かれたわけでもないのだ。
 ハンターというキャラクターは観客に問いかけている。
 どうするべきなのか。これは正しいのかと。

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