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生きている小ささ

快適で便利な都会に暮らしていると、ときどき、生きていることを忘れる。

屋内はいつも適温に保たれ、外では常に人の目に触れながら出歩き、一人の自室ではインターネットを介して外界と接続する。
自分をプロデュースしてオリジナル化したり、自分を始点として世界へアクセスしたりするうちに、自分という存在感がどんどん膨張して肥大化し、社会とのバランスを保つためのコトやモノでいっぱいになっていく。

それ自体は決して悪いことではないし、必要なことでもある。
なぜならそうでもしなければ、同種のヒトや自分しかいない狭い社会のなかでは、生きている実感を確かめにくくなるからだ。

だからこそ、人間には旅が必要なのだと思う。
旅に出て、世界をたしかめたい。
私を始点に世界を見るのではなく、広大な世界の中の、無数の点の中の、さらにたった一粒でしかないことを思い知らされたいと、私という生き物がSOSを叫び始めるのだ。

日差しに肌を焼かれ、雨に濡れ、夜の暗さを怖がり、朝日の眩しさに目をつむる。
朝霧の湿った空気で肺を満たし、冷たい夜風に吹かれ、火の暖かさを知る。
歩いて大地をたしかめ、汗をかき、深く眠る。
そうやって、自分の身体ができるのはごく限られたことなのだと、思い知るとき。
そのときに人間は、久しぶりに、自分たちが生き物であることを思い出す。

高度な知能を獲得し、目覚ましい技術発展を遂げ、ここまでデジタルな存在になった今でも、ヒトはどうしたって、しょせん生き物でしかないのだ。
雨を受けて育つ植物や、草をはんで野をかける小動物、獣の血肉を屠る猛禽類、澄んだ水に泳ぐ川魚、海原にしぶきを上げるクジラやイルカと、何ら変わらない。
そびえたつように高く見える都心のビルも、世界の大きさにくらべたら、繊細で精巧な積み木のようなもの。
葉と葉のあいだに器用にかけられた細い蜘蛛の巣と、大した違いはない。

世界の大きさに愕然として、自分の小ささに絶望し、宇宙を感じて気が遠くなる、そういう瞬間が、人間にはまだ必要なのだ。

多種多様な生命と地や水や空気を分け合い、慎ましい相応のサイズで、世界に包まれる。
その小さな感覚を思い出したとき、やっと私は「生きている」と感じる。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。