これからの

本屋が本として扱っているもの

第2章 本は定義できない (12)

 本とは何か、ここまで考えてきた。ISBNがついているか否か、出版流通に乗っているか否か。印刷され製本されているか。いや、電子書籍が本なら、ウェブサイトも本ではないか。フィニッシュしたもの? 編集されたもの? 論点やナラティブ? すべてのコンテンツが、すべてのコミュニケーションが、もはや読み得るすべてのものが、本かもしれない。けれどすべてが等しく「本らしい」とは思えない。たとえば「答え」を求めて本を読む時代は終わる。「問い」を立てる力を養うものこそが本だとするのもよいかもしれない。すべてが、あくまでひとつの考え方でしかない。

 前章の最後で、「本屋」は「場所」というよりも「人」を指すことばであり、「本をそろえて売買する人」あるいは「本を専門としている人」のことであると書いた。だから、そこでどんな本を扱うかを決めるのは、「人」であるところの「本屋」本人だ。

「本」を厳密に定義することは不可能だ。遠回りをしたようだが、いったん「本」を広く捉えてみることで、読者のみなさんそれぞれに、自分なりに「本らしい」と感じるものについて考えてもらうために、ここまで書いた。読んでいて違和感のある箇所があれば、そのあたりにあなたの「本」と「本でないもの」との境界が隠れている。

 結局はそれぞれが、自分が本だと思うものを本だとするしかない。いわゆる循環定義であることを承知で書くなら、狭義の本は「多くの人が本だと認めるもの」、広義の本は、「本屋本人が本だと認めるもの」、あるいは「本屋が中心的な商品として、積極的に扱いたいと考えているもの」とするのがよい、とぼくは考えている。本屋が本として扱っているものが、その本屋における本である、ということになる。

 たとえば、箱に入ったレトルトカレーを、棚に並べて販売している本屋がある。パッケージの側面にカレーの名称が記されていて、棚に入れると本のタイトルのように見える。もちろん狭義には、カレーは本ではない。けれどそこで働く人が、そのカレーを単なる苦しまぎれの副商材としてではなく、本と同列に文脈を考えながら陳列し、積極的に販売するとしたら、その仕事ぶりは「本屋」らしいと感じる。そのとき広義には、カレーも「本」であるといえる。

 実はこの話は前著『本の逆襲』に「カレーも本である」という見出しで書いたことなのだが、前後の文脈抜きにそこだけが取り出され、批判されることも多かった。だからこそ、装丁家の桂川潤氏がその著書で、丁寧に言及してくださったことには頷いた。

 とはいえ、装丁を生業とする筆者にとって、カレーはやはり「本」ではない。ここでパッケージデザインとブックデザインの違いが鮮明となる。本体の保護と広告機能という点は共通だが、装丁は本体と不即不離の存在だ。装丁は本の内容と現実世界を結ぶ「橋がかり」であり、用済みになれば捨てられるパッケージとは異なる。

桂川潤『装丁、あれこれ』(彩流社、二〇一八)一四一頁

 ある書店員にとって、本と同列に販売し得るカレーは「本」であるかもしれない。けれどあるブックデザイナーにとって、本と同列にデザインし得ないカレーは「本」ではない。「本屋」としての仕事の違い、その仕事に本人がどう取り組むかの違いであって、どちらも正しい。

 本屋が本として扱っているものが、その本屋における本である。けっして煙に巻こうとしているわけではないことは、ご理解いただけるだろうか。次章から、本屋として生きる側の視点、すなわち「屋」の視点に移るにあたり、とりあえずここを出発点としたい。

※『これからの本屋読本』(NHK出版)P84-86より転載


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ブック・コーディネーター、クリエイティブ・ディレクター。新刊書店「本屋B&B」(東京・下北沢)と出版社「NUMABOOKS」を経営しつつ、「八戸ブックセンター」「神保町ブックセンター」「BIBLIOPHILIC」などの仕事をしています。散歩社取締役、バリューブックス社外取締役も。
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