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つくる側から届ける側へ

第9章 ぼくはこうして本屋になった(2)

 高校から大学にかけて、音楽をやっていた時期もあったが、すぐに挫折した。けれど徐々に美術やデザイン、映画や現代思想など、他のことにも興味を持つようになって、どんな分野とでも接点が持てる雑誌づくりがしたいと思った。学内の雑誌サークルに入り、やがて新しく自分たちのチームを立ち上げた。いつしか編集という仕事に憧れるようになった。

 大学二年生のころ、『Wasteland』(荒地出版社)という雑誌の巻末に、編集者の後藤繁雄氏が主宰する「スーパースクール」という編集学校の広告を見つけ、参加することにした。同時に、友人がいた慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの福田和也氏の小説と雑誌のゼミにも、こっそり混じった。そして自分の大学では阿久津聡氏のゼミに入り、ブランド論を学んだ。雑誌づくりとブランディングには通じるところがあると感じていた。このまま就職せずに、自分たちのチームで構想する雑誌で食べていけたらどんなにいいだろう。学科の講義にはほとんど出ずに、興味のあることだけにひたすら時間を割いた。

 けれど結局、雑誌づくりにも挫折して、一号目さえも出すことができなかった。その代わりに、六本木のクラブで自分たち主催のイベントをはじめる。DJやライブだけではなく、古本を解体して好きなページを選んでもらって綴じて売ったり、イベントの模様をその場で朝までに編集してフリーペーパーとして配ったりした。同じころ、当時南青山にあった「IDÉE」の一階にワゴンのような小さなコーヒースタンド兼古本屋のような店があり、そこで手づくりの小冊子を売りながら、古本の仕入れを手伝わせてもらった。また、後藤繁雄氏が坂本龍一氏らと立ち上げた「code」というユニットの、渋谷パルコギャラリーでの展覧会にも声をかけてもらった。ぼくたちは有名無名の様々な人たちから「グッドライフのための企画書」を集め、鉄製のファイルに綴じ、隣にコピー機を置いて来場者は自由にコピーして企画を実行できるという、一点ものの本を作品としてつくって展示した。二〇〇二年。ぼくは大学三~四年で、就職活動もそこそこに、いま思えば実験的な「本屋」を少しずつはじめていた。

 けれど、ベストセラーとなった佐野眞一『誰が「本」を殺すのか』(プレジデント社)を読むまでは、まだぼくはただの本屋の客だった。ニュースで「出版不況」とか「若者の活字離れ」と言われても、いつもの本屋に行けば客がいて、本は売れているように見えた。けれどその本を読んではじめて、出版流通の全体像と、そこに内在している問題点について知り、客ではない側に関心を持つようになる。雑誌づくりに挫折したこともあって、編集の仕事をあきらめはじめていたぼくは、そこから藤脇邦夫『出版幻想論』『出版現実論』(ともに太田出版)や、安藤哲也・小田光雄・永江朗『出版クラッシュ!?』(編書房)などを立て続けに読み、つくる側よりも届ける側に、大きな課題があることを知った。その前後に北尾トロ氏の『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』(風塵社)も読んで、インターネットで古本を売ることができることも知った。これなら自分にもできそうだと思った。Amazonは上陸していたが、まだマーケットプレイスは日本では始まっていなかった頃だ。時代は大きく変化している。若気の至りで、この出版業界を変えるような仕事がしたい、と思うようになっていた。

※『これからの本屋読本』P297-298より転載


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